2013年4月19日金曜日

三井親和についての少し


桃は紅にして 復た宿雨を含み  ももはべににして またしゅくうをふくみ

柳は緑にして 更に春煙を帯ぶ  やなぎはみどりにして さらにしゅんえんをおぶ

花落ちて   家僮未だ掃わず  はなおちて かどういまだはらわず

鴬啼いて   山客猶お眠る   うぐいすないて さんきゃくなおねむる


桃の花は紅色に ゆうべ降った雨を含んで
柳の葉は緑色に 春のかすみを帯びている
庭先には花が散り落ちているけど 家の召使いはそのままにしていて
うぐいすが鳴いているけど わたしはまだ眠っている

そんな感じの内容の詩。想像するとなんとも気持ちよくて眠たくなります。
これは王維の『田園楽七首』という中にある詩でした。唯一わたしが知っている「春眠暁を覚えず」も、まさかの眠たくなる詩。そして季節は春、春の眠りはやっぱりいいよねと、しみじみします。

その詩が屏風になっているものが先日、東京国立博物館に出ていました。

 三井親和 唐詩屏風 18世紀

書いたのは江戸時代の三井親和(みつい・しんな)という人。
全然知らない人だったのですが、実物の書には一目みて人を惹きつけるような力強さがありました。すごく上手いというわけではないけど、ふしぎにずっと見てしまう。前を通る人がふと立ち止まり、屏風の向かいに構えられたソファに腰を下ろし、また次の人が訪れてはじっと座り、、そんな書と人の風景をしばらく眺めていました。

三井親和(元禄13年(1700)ー天明2年(1782))
深川に住んでいて、深川をとても愛していたということで、深川親和と名乗っていたそうです。当時の江戸では、
「どの祭りにも深川の親仁(おやじ)出る」
とかの川柳があったりしたほどで、親和の書いた神社や商家などの「のぼり」や「扁額」がそこら中に溢れていて、江戸を代表する書家だったということ。
また、親和が書いた筆跡を模様化して着物や帯にした親和染めというのもあったくらい、ブームになった人だったそうです。

まだ、上の屏風の書しか見てないですが、せっかくぐっときたので、忘れないよう親和についての本を読んでおきました。


『江戸に旋風 三井親和の書』小松 雅雄 2004

すぐに手に入る本で三井親和の名がついてるもの、というとこの本しか見つかりませんでした。親和と縁戚になる著者の方が、身内用に残そうと資料なりをまとめていたところ、せっかくだからと一般に出版されたという経緯の本でした。なので、親和についての文献、略譜、エピソードなどがまとまっていて、とても意味ある本だと思うのですが、なぜか誤字などの間違いが10カ所以上あるし、なんだか読みづらいし、、この本があったおかげ今回親和のことを知ることができたのに、本そのものとしては全体的にちょっともったいない感じの出来でした。


『森銑三著作集〈第4巻〉人物篇』 1971

徹底的に資料を通じてしか人物を語らなかったという森銑三さんの本。書家の人物ばかりがまとまっている著作集の4巻に「三井親和」が収録されていました。親和についてのページはあまり多くなく、ここに書かれてあることは大体小松さんの本にも引用がされていましたが、読んでみたかったので手にとりました。

親和はよく名前が知られた人だったにも関わらず、あまり伝えられている文献が少ないようです。その中には結構批判的なものもあったりして、あんまり字もうまくないし、書についての学があるわけでもないし、人に求められるままに多く書いたりしているだけで有名になっている、という厳しい内容とか。
特別に高尚な人物だったわけでもないけど、でも世に広く知れ渡っていたりして当たり前の存在になっていたりすると、逆に書き残しておこうとならなくて、資料などがあまり残されていないのかも?

森さんは本のなかで、「しかしその人は尊敬には値しなくても、一概に俗物として貶し去るのはいかがであらうか。右に紹介して来た諸家の記述を通して親和を見る時、私はその人に好感を持つ。」と言われていました。
残っている親和の逸話からは、勤勉だったとか、倹約家だったとか、居候の面倒をいっぱいみてたとか、親しみやすそうな人物像が浮かび上がったりして、そういう人だったからこそ当時の江戸っ子にモテたんじゃないか、と森さんの本にもありました。
この本には、親和の師である「細井広沢」の項もあり、こちらはかなりボリュームがあるものでした。

先日東京国立博物館に訪れたときは、ほかにもまさに達筆なものや、すぐれた書跡など色々みたのですが、このときはいちばん真っすぐで実直な感じで、書は人を表すんだな、というのまさに書の基本のような親和の文字が、一番すっと入ってきたのでした。

それから単純にでかい文字、というのはそれだけでもかなりインパクトがありますね。だからぐっときたというのはあると思います。あと、漢字知っててよかったーと、書を見ると心から思います。
「大きい字」については何となく気になるので、また今度考えてみようと思います。

なんで大に点がついたら犬なんだろう

2013年4月7日日曜日

感想 「飛騨の円空展」いってきました


東京国立博物館での円空展。

謎につつまれた生涯。そんなミステリアスなところがまた人を惹きつける円空氏。
後にも先にも見られない造形の仏像を残したこと、「えんくう」という名の響きの格好よさも相まって、異質な存在感が際立つ人物。

くわしい経歴もよく分かっていないそうですが、残っている文献の一つとしてよく出てくる『近世畸人伝』を読んでみると、岐阜・千光寺の俊乗(しゅんじょう)さんという、なんだか天然だけど無我な心を持つ和尚さんと仲良くしていた、というちょっとほのぼのエピソードもあったり。その千光寺には、数ある円空仏のなかでも屈指の名作が残っているそうで、今回は千光寺所蔵の円空仏を中心に、岐阜県高山市所在のものをあわせ合計100体もの仏さまがはるばるお集りになっているという展覧会でした。

円空というと、こういう
笑っていて、木をそのままに使った荒削りのイメージ。

円空もさすがに最初からそういうタイプのものを彫っていたわけではなかったようで、北海道、東北、関東と修行の旅を経ていくなかで作風にも変遷があり、後期になるにつれこういうよく知られている円空仏が生み出されていったという。

「円空」という名前をはじめにどこで知ったのかもう覚えていませんが、一度見るとやっぱり忘れることはできないインパクトがあります。円空が広く知られていったのは昭和30年代。テレビドラマまで作られたりして、その頃第一次円空ブームが起こったそうです。その後も継続的に円空ブームが続き、さまざまな本も出版され、展覧会もふえ。さらに2006年には梅原猛さんというビッグネームによる調査・考察がなされた『歓喜する円空』の出版によって、また一段階ステージアップして円空が再評価されることになったのだと思いますが、そんなこんなが過ぎ去って完全に乗り遅れた今、やっと円空をしっかり知る機会が訪れました。

円空展のパンフレット

木に宿るものを仏のかたちで彫り出した、その神仏習合感が日本人だからなのかとてもしっくり心地よく響いてくるものがありました。
カッコいいなー、この形、のみの跡、ワオ、でもそれだけでなく深い深い祈りの思いが凝縮されていて、芸術的にみようとする時も、祈りの対象とみようとする時も、円空が修行の末に達した“超越した何か”にすこしだけ触れられるような気がしました。

円空というおじさんはどんな人だったのか、順番に本を読んだりしているなか、円空仏よりも気になるものがありました。

『大般若経』見返し絵 片田本 211巻の一部と251巻

『大般若経』見返し絵 片田本 211巻の一部と251巻

こ、これは何。と衝撃を受けたのは、円空が残した絵でした。

ときは寛文13年(1673)になる頃。円空さんは、奈良の大峯山に入り、決死の冬籠りを行った頃に修行の頂点を迎えたといわれてます。修行を終えた後、それまで作ってきた仏像とはまったく異なる、木肌がむき出しで荒削りの像をつくったそうです。
翌年春、円空の足取りは三重県・志摩町片田と北へ少し行った立神薬師堂で発見されています。というのは、そこでそれぞれの地に伝わる『大般若経』の修復作業を行っていて、その際に同教の守護神といわれる「十六善神図」を添絵として描き残しているのです。現在残っているのが、片田本で54枚、立神本で130枚。それが上の画像のもの。

円空の現存している絵として知られているのはこの片田と立神のものとあと数点しかないそうです。円空研究で知られる長谷川公茂さんや梅原猛さんによると、この仏画が徐々に簡略化されているところに注目し、この絵を描いた以降に芸術的な円空仏が生まれていることを考えれば、見返し絵で省略の技法を学んだのではないか、とここを円空の芸術の変革期とし、彫刻への影響を指摘されていました。

仏さまそれぞれが丁寧に描かれているものもあれば、くるくるーと素早く簡潔に描かれているものもあり、たしかにその後の円空仏と似ている素朴な風貌をした仏さまがたくさん見られます。円空仏の変革のきっかけと考えられていることも面白いですが、やっぱりその絵の素朴感にはかなり惹かれてしまいます。

時々こういうゆるい素朴が、ぼつぼつとどこからともなく日本の歴史の中にわき出してくるのがふしぎです。「三十三観音立像」は何となくはにわのあの感じを思い出したり、妙なゆるさがとてもすきです。

どうしても見返し絵の全貌を見てみたいと思い、図書館などで円空関連の本を開いてみたのですが、全然見つけられませんでした。どこかにたくさん掲載されている本などはあるのでしょうか。いまのところ梅原猛さんの『歓喜する円空』に紹介されている数より多く見ることができた本はありませんでした。絵本にでもしてくれたら間違いなく買うのに、と悔しくおもっています。



『歓喜する円空』梅原猛 2006

円空を知るにはやっぱりこの本からなのかな、と一度手に取ってしまうとあ、違ったかも!と思ってしまう本でした。梅原さんの名前が大きいのでやはりこれをまず読んでみたくなったのですが、内容がかなり濃いでした。これまでの円空研究史や円空の作風、人物などの深い考察になっているので、ここから入ってしまっていきなり重かったです。
2006年の時点でも「今でもアカデミズムにおける研究の対象にはなっていない。」という円空。これまでずっと民間主体で円空研究が行われてきたことによるのか、中にはあることないこと書いたりした方もいたそうで、それに対する梅原さんの批判など読むにつれ、円空研究が抱えていた問題についても知らざるを得なくなり、はじめに読んでしまって大変だと感じてしまいました。それでもやっぱり本自体は、梅原さんの凄みがあり、ここを通らないわけにはいかないというものでした。

『円空仏 』長谷川公茂 1982

保育社の文庫カラーブックスシリーズ。円空学会の理事長でもあり、民間の円空研究者のなかの代表的な方。梅原さんは長谷川さんの案内で円空仏を巡っていたり、長谷川さんの最近の『円空 微笑みの謎』に寄稿されていたりもしてました。
写真が大半の本でしたが、長谷川さんが円空研究のなかで大切にされている仏像以外の部分、円空が大量に残している和歌からみる円空思想の考察についても少し収められていました。
今回円空を語る本を色々手にとってみましたが、思い入れが強いからこそなのか、円空の生涯が謎に包まれている分、ときどき独自に空白を埋めるような考えや主張があったりするなかで、長谷川さんの著書には熱い思いと一緒に、控えめな感じがするのもまた印象的でした。


『円空を旅する』冨野治彦 2005

たぶん写真をみながら、円空の全貌が分かりやすく読めるのは長谷川さんの『円空 微笑みの謎』かなと思いましたが、コラム的に円空の生涯と大事なポイントを一通り分かるにはこの本が一番読みやすかったです。文章は、産経新聞大阪の記者さんが取材して新聞に連載されていたものでした。梅原さん長谷川さんはじめ、お寺の方や円空研究で知られている方々に取材を行いながら円空の足跡をたどっていて、円空についての大切なことはもれなくまとまっている感じがするのでよい本でした。

研究史においても主流としてなかなか扱われてこなかったところや、既成のことに捉われないところ、同じくらいの時代に生きていたことなど、先日行った白隠との共通点を感じた円空でした。

「円空の作った素朴な仏は、それまであたりまえのものとして江戸時代の人の祈りの対象としてあったもの。「美術」という観念が後に日本に確立されてはじめて、あらためて円空仏などが発見しがいのある先鋭な存在へと変貌したのではないか、
かつて日本のものさしだった中国や西洋の価値観から外されてきたものにこそ、日本独自のオリジナリティがあるのでは、」
そんなようなことが、白隠の時に読んだ矢島新さんの著書にあり、なるほどとおもいました。

いろいろと考えたりした円空についてでしたが、円空は、庶民でも仏教を知らない人でもどんな人でも救われる、とずっと仏を彫り続けていたわけなので、そんな難しいことも一瞬で吹き飛ばしてしまうパワーがあります。そうしてみんな円空にのめり込んでしまうんだと思いますが。

円空に関して読んでみたなか、結局いちばんしっくりきたのは、美術手帖2月号のみうらじゅん氏による文章。。


『美術手帖 2013年2月号』

みうらさんは、仏さまのことを「仏(ぶつ)」と呼んでいる時点で尊敬していますが、その独特の仏像感覚がすごいです。最近やっと仏像に対して興味が増してきたところ、改めてみうらさん・いとうせいこうさんの『見仏記』を読むと、誰も仏像に対してそんなことを大声で言ってきてないことを、すがすがしく表現しているその感じ、その視点、みうらさんていいなとおもっているところです。真面目に語る人を巡りながら、結局みうらじゅんに戻ってきたことで最後はなんだか自分にほっとしたのでした。


2013年3月20日水曜日

感想 「白隠展」いってきました


Bunkamuraで開催されていた白隠の展覧会。

「質、量ともに史上最高の白隠展」とパンフレットにも書かれていましたが、未だかつてこれほどの規模での白隠展というのは無かったということで、ちょっと記念的な存在となる会だった模様。イベントなどもずいぶん盛りだくさんでしたし、力の入り方がグイグイ伝わる展覧会でした。

「白隠」と聞くと色々取り上げられているし、
ここ最近の流れしか知らないので、美術の面ではかなり有名人なんだとすっかり思っていました。でもそれはやっぱりここ最近のことらしく、これまでそのユニークさが取り上げられることはあっても、正統な「日本美術史」にはなかなか組み込まれておらず、美術史的な意義が語られることがなかった、というのが実情なんだそうです。

とりあえず図録など参照しつつ、これまでの美術面からの「白隠」の扱いはどんな感じだったのかをメモ。

「白隠」と名のつく展覧会。過去にはちらほら各地でありつつも、主なのはこんな感じ。
1958年 東京国立近代美術館での「白隠の芸術:水墨画と書」
1986年 継続的に白隠展が行われている佐野美術館での「白隠・禅の芸術展:生誕300年記念」
2004年 生誕系では京都府京都文化博物館の「「白隠/禅と書画」展:白隠禅師生誕320年」

ほかに白隠禅画の研究で重要な事として書かれていたのは、
1964年 約500点の図版が収録された竹内尚次による『白隠』の刊行。
2009年 約1000点もの図版が収録された芳澤勝弘による『白隠禅画墨跡』の刊行。
2010年 日本美術史の権威である学術雑誌の『国華』にはじめて白隠の特集が組まれる。

また、今回の展覧会に繋がる直接のルーツになっているのが、2000年に開催されたギッターコレクションの「ZENGA展」。アメリカのコレクターが所蔵する白隠をはじめとする禅僧たちの絵を「ZENGA」の名のもと逆輸入的に紹介したという展覧会。日本各地をちょっとおもしろな禅画が巡回したという、この展覧会の監修を行ったのが今回の監修もされている山下裕二先生でした。

大量の書画を残し、見る人に強烈なインパクトを与える達磨の絵や、ユーモラスな戯画などが知られている白隠さん。

なぜ、これまで美術史の面からあまり語られてこなかったのか。
という理由の一つには、単純に「書かれている賛の解読が難しい」ことが挙げられるという。たしかに、あくまで禅画なので、表面的にいかにおもしろくても、添えられている言葉が分かっていなければ本当の意味で理解ができない。。

そんな中、今回のもう一人の監修者、芳澤勝弘先生の存在が。散在している白隠書画の徹底調査を行い2009年に刊行された研究書は、賛の書き起し、読み下し、解説が全ての作品に付けらたということで、白隠研究が新しい段階に進むことになったものすごい本みたいなのです。そんな研究成果の流れがあってこそ、ついに2012年、美術面からの評価と意味からの評価が融合することで、この大規模な白隠展が開かれるに至ったということでした。

展覧会の図録。すたすた坊主が表紙をすたすた。


白隠慧鶴 はくいん・えかく 享保2年(1686)~明和5年(1769)。
禅の世界では超メジャーな白隠禅師。今の日本の臨済禅の法系を辿ればすべてこの人物の下になるという、偉大なる人。その禅画を美術面からみたとき、絵は恐らく独学で、アカデミックな潮流からは程遠い作風。まだまだ安定していない評価。しかし何にもとらわれない独創的な表現は、後の「奇想」とかと呼ばれる画家たちの祖とも呼びえるのではないか、白隠はメインストリームで扱われるべき人物なのではないか、と今まさに美術史は塗り替えられようとしている最中。図録に寄せられた山下先生の文章のタイトルはまさに「白隠のいる美術史へ」でした。

ということで美術史上の意義がとっても大きい展覧会だったのだと思います。
集められた作品も、白隠画が最も独創的になりエネルギーが溢れるとされる最晩年の作品が多く。厳選された作品が一堂に見られ、また個人のコレクションも含まれていたので、見る側としても、二度とお目にはかかれないかもしれない一期一会の機会でもありました。

とはいえ、ただ個人的に「白隠」に向き合うなら、1点だけ見るのでも十分に思いました。
まだまだ仏の経験値みたいなものが少なかったり、精神がゆるーいわたしには、いろいろなことを本当に理解することもできないと思ったので、一点集中! と、定めたのは、分かりやすく伝わってくる文字、書となりました。

「親」 孝行するほど子孫も繁昌 おやは浮世の福田(ふくでん)じゃ
親に孝行するほど子孫は栄えていく だから親は幸福を生み出す宝物だ という意味だそう。

きっと見るタイミングによって全く変わってしまうと思う、見る側の精神度合いとかでもかなり左右される白隠画の観賞。見方感じ方は色々で、単に造形として感じたいときもあれば、やはり書かれたものを深く知ろうと思えば、同時に宗教的なことを理解しなければいけない。

膨大な数の著作を残し、各地に赴き講義を行い、大量に描いた墨蹟を通してひろく禅を伝えることに努めた白隠禅師。宗教改革者としてのそのすごさを読めば読むほど、白隠さんの絵のことを理解できるなんてまだまだだ、と思ってしまいます。


白隠さんの絵は、どこが、何が、すごいのか。
今回の作品解説も書かれていた矢島新さんの本には「「主観の表現」により日本独自の禅画のルーツを生み出した」、とありました。伝統的な宗教画というと、崇高さの表現を目指すもので、技術をもって完全な形態を作り出そうとするものであるが、それと比べると白隠画は先例に習うものでも、模写的なものでもなく、「内なる仏」を画面に映し出そうとしている、と。


『近世宗教美術の世界』 矢島新 2008

白隠の現存作品の総数は1万点を越えるともいわれ、80歳を越えても1日10点近くの制作していたというエピソードがありました。また同じ絵や同じ文字、同じ主題を何度も何度も書いていたと。“くりかえしくりかえし書く”という行為を想像してみると、それはその人物やその物事へ深く入り込み理解をしようとすることで、それ自体が修行そのもので、「内なる仏」を見出す行為なのだと思いました。
その境地としての精神世界が、線として一体化されている迫力。
そしてなにかの形式や、制約などにとらわれることなく生み出されている絵。
そういう表現主義的な部分こそが、禅という宗教的なものを越えても、今の時代にグイグイ伝わってくる格好良さなのかと思いました。


どんな感じで書いてたんだろうと「横向き半身達磨」を真似てみました。西日でいい感じ風を装いましたが、筆がむずかしすぎて「横向きバランスへんな達磨」になりました。


『白隠-禅画の世界』 芳澤勝弘 2005


芳澤さんの著書でも図録の中でも繰り返し言われていたこと。
白隠禅画は見るだけでなく、読まなくてはならない。白隠は芸術家ではない、宗教家である。美術として注目を集めているが、ただ美術的観点からだけでなく、宗教家として伝えようとしたメッセージの深意を掴まなければいけない。
と、とても研究的に白隠を考える時の視点が前面にありましたが、個人的に白隠に出会う場合は、禅からでも絵からでもどこから入っていっても、どう捉えようとも、最終的には宗教家とも芸術家とも分けることができない。そして言葉にできない「絵のかたちをした何か」に辿り着いてしまうことになるんだろうと思います。

白隠さんという人自体についての感想。
『徒然草』を嫌っていた白隠は、吉田兼好を猿に見立た「吉田猿猴」という絵を残していました。白隠さん的にはたぶん「つれづれなんかしてんじゃねーよ」という感じでしょうか。私としてはどちらかと言えば「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかい」たいほうなので、その点でも私にはまだまだ白隠さんの境地なんか理解できたもんじゃないと思ったのですが・・ この作品と背景を知ったとき、なぜか大島渚と野坂昭如の殴り合いシーンがよぎって消えていきました。言いたいこともズケズケいうけど、憎めない偉大なるオヤジ。なんとなく勝手に、そんなイメージの人物が出来上がりました。


数多くの作を残し、形式に捉われず、内から見出す仏の表現、そして正統な美術史からは外れた存在と見られてきたこと。。。それは次に訪れた「円空展」でもまったく同じものを感じたのでした。


2013年3月5日火曜日

那智瀧図


根津美術館の那智瀧図(なちのたきず)。

たぶんこの瀧が飛瀧(ひろう)神社のご神体として崇拝されている熊野の那智瀧である、ということを知らなくても、向かい合えばかならずそこに神性を認めさせる、その完璧な絵姿がとてもすきです。国宝なんだそうですが、歴史的にこのような絵が日本の宗教画としてあることはまさに国の宝もの。

はじめて実物を見ましたが、ふしぎなことに、たとえばプリントされたこのパンフレットでも十分というか。神々しいものを含めた那智瀧がそれくらい記号化されてこの絵の中に収まっているからこそなのか。

滝というのにはなんだか特別さを思わせるなにかがある。大きい滝、小さい滝でも山を切り分け上から下に音を響かせ流れるさまには、分かりやすく自然の力を感じさせるものがある。滝行とかあるくらいだし、滝と聞けばその美しさを越えて何か厳かなものがそこにあるというのが、感覚的に備わっています。

それにしてもこれまで滝をモチーフに描いている絵は数え切れないと思いますが、思いつくのといえば何だろう。

円山応挙 大瀑布図 1772

「保津川図」「波濤図」「龍門鯉魚図」。水を描いている印象も強い応挙。これは音が聞こえてきそうな勢い。










葛飾北斎 木曽路ノ奥阿弥陀ケ滝 1833頃

全国の有名な滝を描いた北斎の『諸国滝巡り』8枚のうちの1つ。かっこよすぎてびっくりする絵。










東山魁夷 夕静寂 1974

これは滝というより静けさのほうが主役。実際この場所に滝は無くあとから付け足したんだそう。音が静寂をつくるというふしぎ。
千住博 waterfall 2009

ほかの千住さんの作品を知らないのですが、滝といえばと思い出しました。




会田誠 滝の絵 2007-2010

先日行った会田誠展でも見られた滝の絵。たしか「奉納」と額に書かれていて、滝にあそぶ少女たちの姿は宗教画として妙に納得させられる作品。













那智瀧そのものもたくさん描かれてきたということですが、あまり知らず。

(左)鈴木芙蓉 那智瀑泉真景図 1793 (右)冨田溪仙 那智瀧 1935

瀧のことについて、またまた先日読んでいた白洲正子さんの本に「瀧に想う」という文章があり、短いながらも瀧にまつわる日本人の感覚がまとまっていて良いエッセイでした。


『縁あって』白洲正子 1999

そのなかにあった百人一首のひとつ。

瀧の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
藤原公任  

「瀧は枯れてしまってずいぶん経ってしまったが、その名声は流れ伝わって今もよく知られている」という内容の歌。それより詳しい歌の解釈はわからないですが、“もはや無いものをあるように聞く、あるように感じようとする”、という意味で「想像する」のはとてもアーティスティックな行為だと思いました。そのあと白洲さんは石と苔だけで瀧を表現する「枯山水」を例にひいていて、それは静寂の極みである反面「音の庭」だと書いていました。まさに観念の世界の最高域のものという感じです。

宗教画というのもそういう性質を持ち合わせていると思うのですが、那智瀧図も千手観音が姿を変えた神体・飛瀧権現という観念の世界をいかに凝縮させてあらわすかが突き詰められているようです。

那智滝図は、13〜14世紀の鎌倉時代に制作され、誰が描いたのか、何のために描かせたのかは研究者のあいだでも議論が続いているそうです。根津美術館の白原由起子さんの書いたものによれば、絵の下のほうに卒塔婆が描かれていて、これは亀山上皇が1281年に建てたという説があるので、この絵が書かれたのはその後なのではと想定されているんだそうです。とにかく描いた人がすごい。

那智瀧がモチーフになっているものとして最も好きなのは芹沢銈介展で見た「御滝図文のれん」(1962)。那智瀧図が完全に元になっていると思うのですが、細かいところが削ぎ落されているにも関わらず、おもわず祈りたくなるような神聖さを兼ね備えているのがすばらしい。ただちょっと簡単にはくぐりづらいと思われるのれんです。





2013年2月26日火曜日

日本民藝館 2013年2月


民藝館へ行き、柳宗悦の眼で選りすぐられた民藝品を見る時
とくに言葉に残しておきたいことはなくなり、後に残るほわっとした何かを、大切にとっておくよう心がけています。

語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。

というヴィトゲンシュタインの言葉。ちゃんと理解しないまま簡単に使ってはいけないと思いますが、この言葉をなんとなく思い出してしまいます。

すがた、かたち。だけでなくて、生活の品として生まれてきた物の背後に潜む人の暮らし、使い回されてきた感触が残る全体の感じ、素朴さ、きれいとは違う美しさ。
そんなものがなぜ「かたち」としてそこにあるんだろう?
というなんとも語ることの難しい存在。

毎回訪れては、結論は同じところに。
日々使うもの、周りのもの、珍しいものでもそうでないものでも、モノをみるときには「単に見る」んじゃなく「すごい見」ないといけない。見て見て見つくすと、時に開眼して、これまで見ていたモノではないようにそのモノが見えることがある。それが、何とも言い表せない感覚のキーになるものだったりする。
それがいわゆる民藝に限らなくても、むしろ民藝なんて言葉に縛られなくても、見出せる眼と見出される物と。

というのが私のなかでの「語り得ぬもの」で、柳さんのコレクションにはそれがふんだんに含まれている、と思っています。

見つめていればいるほど、見つめてきていないモノが多いことに気づきます。“はい、見よう”と枠組みに入り込むとき以外には、なにも見てきてないことに気づきます。そんなことを何度も思い、何度も忘れ、そしてまた思い出すためにこの場所があるような気がします。

わたしにとってここは、
そういう目線を教えてくれる場。
知らない美を教えてくれる場。
そして何かを忘れないようにする場。
と考えて定期的に訪れています。

たまたま今白洲正子さんの本を読んでいますが、このひとの眼の深さも恐ろしいとびびっています。


『縁あって』白洲正子 1999

「真の美は買って、所有しないとわからないところがあります。所有することによって、ある充ち足りた時間を確実に生きるということなんです。単なる美術の鑑賞とは深さが違います。」そして使い込んではじめてそのものの美が生まれてくるそうで、刀のつばを寝る間もずっと離さず触っていたら、鉄の色がなんともいえない深い色になったと白洲さん。

そんなことを白洲さんは「物が見える」という言葉で表しているのですが、柳さんもまた「物が見える」人ですね。どんな世界でも極めれば、言い方は異なれど最後に至るところは「物が見える」と同じ感覚に違いないと思います。感じ方は柳さんや白洲さんと同じでなくてもいいと思いますが、そこまでに至る道のりを体感してみたい。というには私はまだまだモノまでの距離が遠いところにいるように思います。

「開眼」は最近気に入っている言葉ですが、まさに「物が見える」っていうのは開眼。

カッ!

という感じですよね、開眼ってなんか。

民藝館から帰り道を歩いていたら、通すがりの建物の塀に、お、お皿?

 

いつもは自転車でぴゅーっと過ぎ去ってしまうところに、見えていない物もある。「知っている」というのはいつもほとんど嘘に近い言葉。知らないことはたくさん。
ひょんなところで、すてきなお皿を発見したらちょっとお得気分。