2012年4月28日土曜日

感想 「毛利家の至宝」いってきました


六本木「東京ミッドタウン」の場所には、遡ると江戸時代には長州藩・毛利家の下屋敷があったそうで、今回ミッドタウン5周年記念として毛利家ゆかりの品々が集められた展覧会がサントリー美術館で開かれています。「毛利家」といわれても、大名や歴史についての知識もほぼ無いし、大丈夫かなあと思いつつ行ってきましたが、さすがサントリー美術館。どんな展覧会でも毎回新しい発見があり、行ってよかったなーと思える私にとって信頼の美術館。一瞬でも気になった展覧会は、絶対に行って正解です。


ミッドタウンではこういうパンフレットも作っていて、江戸麻布屋敷と呼ばれていた頃のお屋敷図と現在のミッドタウンの配置を比べて見られるようになっています。

「毛利家の至宝展」ではほとんどの展示品が、山口にある毛利博物館からやってきていました。毛利邸の一部を使用して作られた立派な博物館で、毛利家に伝来する工芸品、資料を約2万点も収めているそうです。
その毛利博物館所蔵の、今回最大の目玉にされている作品が、国宝でもある雪舟の「四季山水図」です。絵巻になっていて、全長がなんと16m近くあるため「山水長巻」とも言われています。毛利博物館の方の講演会でも言われていましたが、10年前に東京国立博物館で雪舟展があった際は、ものすごい観客数で巻物を見るにも一苦労な状態だったけれど、今回はかなりゆったりと見られる機会になっていると。その通り、休日に行ってきましたがストレスない程度でじっくり行ったり来たりと見る事ができました。そう思うと、トーハクの企画展って見る環境としては本当にもどかしいなあと嫌になります。

「山水長巻」を間近で見ると、レプリカでいいので一巻まるごと手元に欲しいという、去りがたい気持ちになります。全体の雰囲気はうっすら暗くて、重めのクラシック音楽が似合うような、決してスカッとした気持ちよさみたいなのは無かったですが、くせのすごい作品でした。どこまでも延々と続いていくような錯覚に陥るほど、長さのインパクトがある一方で、一場面だけでもずっと見続けられる細部の耐性みたいなものがあり。細かい筆づかいや表現の繊細さが見えるのに、ダイナミックな勢いやリズムも感じる。不思議なバランスで保たれているのがなんとも心に残ります。


(山水長巻はないのです。。)

しかしこの「雪舟」なるものについて考えるとき、いつも違和感のようなわだかまりがつきまといます。というのも名前に対する先入観が取り払えないことです。

“雪舟=何となくすごい”、 をできるだけかき消して見ようと決めて行きましたが、隣で見ていた6〜7歳の男の子でさえ「雪舟はさあ、」と得意気に母親に説明していて、それはそれで天才か!と思いましたが、そんな子どもにまで「雪舟」フィルターがかかっているので、拒んでもどうしてもつきまとう名前の偉大さというのがあります。「国宝」とか「雪舟」とかいえども、爆発的に他のものより優れているということではないのですが。

そもそも「雪舟は・・・」という括りで感想が持てるほど、他の人の水墨画を沢山見てきたわけでもないので、そういう考えはもっと先延ばしにしようと今回決めました。きっと雪舟を一つ見るごとに、そういう先入観の雪舟を捨てて行けるような気がしました。

今回、雪舟研究にも精通している山下裕二先生の講演もありとっても興味があったのですが、この方はそういう作り上げられてきた雪舟観を破壊し再構築していくデストロイヤーなので、逆に引っ張られてしまいそうで、ニュートラルを保つためにも、毛利博物館の柴原直樹さんの「毛利家の歴史と文化」についてのお話の方を聞いてきました。


『雪舟はどう語られてきたか』山下裕二 編・監修

10年前のトーハクでの展覧会の頃にあわせて出ているこの本は、過去の美術史家を含めた著名な人たちの雪舟に関する文章を集めたもので、いつかしっかり雪舟を考える時がきたらここから始めようと思っています。

それから意外な気もしますが、柳宗悦も雪舟について書いたものを残しています。


『柳宗悦コレクション2 もの』柳宗悦

この本の中に「民藝と雪舟」という章がありました。雪舟が描いたと伝えられている「柳鷺図」を民藝館のコレクションに加えた際に、民藝と雪舟にどういう関係があるのかという問題が持ちあがり、そのいきさつの話から始まっています。もちろん雪舟の名で買ったわけではないのですが、その中で柳さんらしい印象的な表現の仕方がありました。

「一見すると民藝品と雪舟とはいたくかけ離れた存在のように見えるが・・・丁度自力門と他力門との違いのようなものでもある。・・・山に登る道筋が違うまでで、登りつめれば一つの頂きで相会うのである。・・・教典が違い教学が異なっても、同じ仏道を徹すればその究極に於いて大いに通じるもののあることを見逃してはならない。」

ようは、名や評判にとらわれないで心でものを見よ、ということで、民藝品だから良いとか貴族品だから良いという不自由な見方をしてはいけない、美しいものは美しいんだという話でした。

雪舟のものか定かでないのでなんともですが、でもあの柳宗悦が選んだことがあるというのは、雪舟の作品というのはその中でもだいぶ振り幅があるんだろうなという気がしました。「山水長巻」テイストの水墨画なら絶対買ってはいないと思うし、どういう感じがそこにはあったのかその辺りも今後気になります。

とはいえ、今回の「山水長巻」についての感想は雪舟の名に恐れることなく、素晴らしかった!と言いたいと思います。

そうそして、全129点の展示品の中では他にも見れてよかったものがいくつもあります。特に円山応挙の「鯉魚図」、雲谷等璠の「八江萩八景図巻」、俵屋宗達画/烏丸光広詞書の「西行物語絵巻」が印象的でした。


応挙「鯉魚図」3幅が出ていた中の1幅がこれです。2006年の和楽の表紙になっていました。鯉の滝登りの図で、実物は結構大きく白と黒の対比と鯉の構図がかっこいい水墨画。水流は白いのを上から塗ってるわけでもないし、どうなってるんですか!という驚き。

このように今回も楽しかったサントリー美術館であったのですが、この後つづく展覧会も全部楽しみにしています。

6/13〜 沖縄の紅型
8/8〜   デジタルを駆使してみせる日本美術
9/19〜 お伽草子
11/21〜 フィンランドのデザイン

9月のお伽草子はもしかすると今年一番見たい展覧会かもしれないです。一気に秋がくるのは絶対いやだけど、待ちきれない!


2012年4月20日金曜日

感想 「ロベール・ドアノー展」 いってきました

写真美術館で開催中の「生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー」を見に行ってきました。


ロベール・ドアノーと言えばこのキッスの写真。というのですが、一体どこで目にして見覚えがあるんだろう。ポスター、カードと様々なものになっているということで、この写真は確かにすごく既視感があるのですが、全然わかりません。写真美術館の外の壁面に巨大なこの写真があるけれど、その記憶でしょうか。謎なんです。

よかったよとオススメいただき、またロベール・ドアノーの誕生日、4月14日にはGoogleのロゴが変わっていたのを見たりして、せっかく2度聞きしたので行ってきました。


全部で186点、回顧展ということで1920年代の初期のものから80年代の作品まで、パリの街並み、当時を生きる人々、有名人のポートレートからちょっとユーモアのある演出されたものまで、色々な写真を見ることができました。

写真はほとんどパリまたはパリ郊外で撮られたものばかり。完璧に意図を凝らしたような美しいものでもなく、大きなインパクトや風変わりさがあるものでもない。普通にある世界。人々が、生き物が、動いて時間が進んで行く世界。それをじっと見つめ、人がふとよそ見して見逃している一瞬を抜き取ったような写真。どれも前後に流れる時間を感じるような写真でした。

ロベール・ドアノー自身は、写真に対して分析的に考えたり、論理を通したり、思考を働かせるタイプではなかったようで、あまりに人々が分析的に写真を見ることに対して、

目覚まし時計を解体すれば、時間が分からなくなるようなものだ

というような事を述べていました。展覧会場に置いてあった図録をぱらぱら見ていたときにこの言葉を見たのですが、言い回しなどの言葉づかいに興味をひかれたので、少しロベール・ドアノーの言葉をあつめてみました。

レンズは主観的だ。この世界をあるがままに示すのではない。私が気持ちよく感じ、人々が親切で、私が受けたいと思うやさしさがある世界だ。私の写真はそんな世界が存在しうることの証明なのだ。
主観的・・なだけでなく、「私」がそのように受け取っている世界が、事実存在しているという考え方がとても印象的な言葉。

If you take photographs, don’t speak, don’t write, don’t analyse yourself, and don’t answer any questions.
写真を撮る時に、どれだけ色々な事を考えずに済ませられるか。絵とちがって写真のように一瞬を切り取るための反射神経を高めるには、分析や思考は邪魔になるのかな。

The marvels of daily life are exciting; no movie director can arrange the unexpected that you find in the street.
日常の中に不思議で驚くような事を発見できる、その目を持っていることが素敵だとおもう。事実は小説よりも奇なり。


そこで、ロベール・ドアノーの文章をもう少し見てみたくなったのでこの本を手にしてみたのですが・・・


『不完全なレンズで―回想と肖像』

もともとは1989年に出されたロベール・ドアノーによる自伝的な本で、これを堀江敏幸さんという色々な文学賞をとっている方が日本語に翻訳され、2010年に出版されたものです。

これが順序どおり過去を回想したものではなくて、人物・場所・物事についてバラバラに書かれ、さらに文章も一筋縄ではいかないような表現で語られているので、読みづらい読みづらい・・・。気分を変えて3回挑戦しましたが、まったく言葉が頭に入って来ず、やむなく諦めました。無念。

しかし、とても素晴らしくまとめられた書評を書かれている方の文章をみつけました。これを読み、ひとまずこの本を無駄にすることは避けられたのでよかったです。

文筆家・大竹昭子の書評ブログ:『不完全なレンズで』ロベール・ドアノー著 堀江敏幸訳(月曜社)


写真については、技術とか見た目の感覚的なものとか、対象とか、そういうところだけに気を取られがちだったので、これまであまり大きな興味がありませんでした。でもロベール・ドアノーの言葉のようにその人の世界の見方、捉え方と考えると、ポートレートなどもすごく面白く感じられて、少し考え方が変わったような気がします。自分の解釈する身近な人たちのポートレートを撮ってみるのもおもしろいだろうなと思ったり。

写真のことについて考える時、写真家があまりに色々な場面を切り取っているのを見て、自分の見ていないものがどれだけ多いことかと、よく思う。べつに目を凝らさなくても、見えるものがたくさんあるけど、何気ない日々は無意識の時間が多い。脳を効率的に休み休み使っているから、慣れてしまったことは無意識になってしまう。だからシャンプーを2回するし、Suicaの代わりに家の鍵をかざしたりする。その無意識を少し取り除けば、もっと見えるものはあるはずなのに。

いったい一日の中でどれだけ無意識な時間があるのか。脳ある人は脳を隠す。もっと無駄に脳を使って世界を見たい。


脳かくし。 

2012年4月17日火曜日

ちょうど深夜映画


4月。
たまたま見た映画が、妙に心に残りました。

きっと映画館で上映されていても観にいかないし、
TSUTAYAに並んでいても手にとらない。
深夜映画ならではのあの感じ。

ごろんと見てたら、突然「!」となったり涙していたり。
見なかったはずのものだからこそ、
それに出会えた小さなラッキー感が嬉しいあの感じ。

出会わなかったはずのもの、しなかったはずのこと。
積極的に選んだんじゃなくて
テキトーなチョイスでしたことが、
意外と特別なものになっていたり。
けっこう毎日のなかでもあったりする。

映画見るとか見ないとか
そんな小さいレベルでもあるんだから、
人生全体の際限のない選択肢の量を考えると
そんなことってどれだけあるんだろう。

選択肢によってはパラレルワールドのように
一瞬先にちがう世界が広がっている・・
という可能性があるのをおもうと、未来の予測も気になるけど、選択の積み重なった過去や歴史を振り返るのはおもしろい。

何が何に影響を与えてるなんて分からないほど複雑!

そしてそのたまたま見た映画。


『カオス・セオリー』

自分の行動を何でもTO DOリストにしないと気がすまない主人公。ある日妻が時計を10分遅らせたことによって彼のスケジュールが狂い、予測不能の出来事が巻き起こる。。というストーリー。

タイトルになっているカオス理論というのは、

「何かしらの法則に従っているにも関わらず、結果として予測不能で複雑な行動を示す現象」

を扱う理論ということで、せっかく調べたので忘れないようメモ。

様々な自然現象、打ち寄せる波、心臓の鼓動などもそのようなカオス現象の一つで、一見ランダムに見える動きをしているが決まった法則の下に生じている現象。しかしあまりに複雑な要因が絡み合いすぎて、少しの差が全体に大きな影響を与えていたりする。というのも、これらの振る舞いの予測をするにも、最初に設定した初期条件がわずかでも違えば結果が大きく変わってしまう。例えば天気予報が100%当たらないように、ほんの少し条件が違うだけで予測は「晴れ」から「雨」になる。さらにその初期値を正確に観測するということさえ、無限に桁が必要になってしまうような正確さがいるため、予測をすることが事実上不可能。この「初期値の鋭敏性」の問題は、「ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスにトルネードを引き起こすか」という気象学者の言葉からバタフライ効果とも呼ばれる。

という話だったのですが。
カオス理論の興味から、この映画を手に取った人はきっとがっくりするほど、内容は知的な話ではなく普通の映画。なんとなくカオス理論が全体に行き渡っているような人間ドラマ。初期値の問題で言えば、奥さんが時計を10分だけずらすということによって結果がとんでもないことになるというところとか。

中途半端といえば完全に中途半端な映画なのかもしれず、コメディ的なところもありシリアスなところもあり、どちらにも寄り切れていない半端さが嫌な人はいやだと思う。話の流れもどういう感じで進むんだろうということさえ曖昧な、、
でも逆にそれがすごく良かった映画でありました。

コメディともシリアスともハートウォーミングともわからない。
どの要素もあって、どれとも言えない。
でもそれがもしかすると人生?
んなことも思ったり。

だからって、映画の内容がすごくリアルかと言ったらそうでもないけど、色んな意味でのわからなさが、ぐっときたポイントでした。ともすればアダム・サンドラー的コメディ映画にも、反対に『ロスト・イン・トランスレーション』な雰囲気映画にも、振れようと思えば振れるけどそのどっちつかずさがいいと思える映画。

ゴシップ的には、この主人公の男の人、スカーレット・ヨハンソンと離婚して、今はブレイク・ライブリーと交際中なんだそうです。色男!

『カオス・セオリー』の好きな感じは、たまに深夜でも見かけたことある気がするこの映画にもなんとなく?共通。


『フェリスはある朝突然に』

これは本当に大好きなNo.1映画。
しかし21時台には、まあ観ることはない、大きな引きはない映画。そこが深夜映画の良いところ。

とは言えアメリカでは王道的に今も人気を誇る映画だそうで、今年のスーパーボウル用にホンダがこの映画のパロディCMを作ったそう。こういうのたのしい。



そしてこの主人公の人は、サラ・ジェシカ・パーカーの旦那さんなんですって。なんと全然知らなかったー。

さて4月に観た深夜映画は、私の未来の振る舞いを何か変えるものになるのでしょうか。

取るに足りないようなふとした深夜映画が、もしかすると私のカオスな人生の、全体を大きく変える小さな要因だったりして。