2013年2月26日火曜日

日本民藝館 2013年2月


民藝館へ行き、柳宗悦の眼で選りすぐられた民藝品を見る時
とくに言葉に残しておきたいことはなくなり、後に残るほわっとした何かを、大切にとっておくよう心がけています。

語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。

というヴィトゲンシュタインの言葉。ちゃんと理解しないまま簡単に使ってはいけないと思いますが、この言葉をなんとなく思い出してしまいます。

すがた、かたち。だけでなくて、生活の品として生まれてきた物の背後に潜む人の暮らし、使い回されてきた感触が残る全体の感じ、素朴さ、きれいとは違う美しさ。
そんなものがなぜ「かたち」としてそこにあるんだろう?
というなんとも語ることの難しい存在。

毎回訪れては、結論は同じところに。
日々使うもの、周りのもの、珍しいものでもそうでないものでも、モノをみるときには「単に見る」んじゃなく「すごい見」ないといけない。見て見て見つくすと、時に開眼して、これまで見ていたモノではないようにそのモノが見えることがある。それが、何とも言い表せない感覚のキーになるものだったりする。
それがいわゆる民藝に限らなくても、むしろ民藝なんて言葉に縛られなくても、見出せる眼と見出される物と。

というのが私のなかでの「語り得ぬもの」で、柳さんのコレクションにはそれがふんだんに含まれている、と思っています。

見つめていればいるほど、見つめてきていないモノが多いことに気づきます。“はい、見よう”と枠組みに入り込むとき以外には、なにも見てきてないことに気づきます。そんなことを何度も思い、何度も忘れ、そしてまた思い出すためにこの場所があるような気がします。

わたしにとってここは、
そういう目線を教えてくれる場。
知らない美を教えてくれる場。
そして何かを忘れないようにする場。
と考えて定期的に訪れています。

たまたま今白洲正子さんの本を読んでいますが、このひとの眼の深さも恐ろしいとびびっています。


『縁あって』白洲正子 1999

「真の美は買って、所有しないとわからないところがあります。所有することによって、ある充ち足りた時間を確実に生きるということなんです。単なる美術の鑑賞とは深さが違います。」そして使い込んではじめてそのものの美が生まれてくるそうで、刀のつばを寝る間もずっと離さず触っていたら、鉄の色がなんともいえない深い色になったと白洲さん。

そんなことを白洲さんは「物が見える」という言葉で表しているのですが、柳さんもまた「物が見える」人ですね。どんな世界でも極めれば、言い方は異なれど最後に至るところは「物が見える」と同じ感覚に違いないと思います。感じ方は柳さんや白洲さんと同じでなくてもいいと思いますが、そこまでに至る道のりを体感してみたい。というには私はまだまだモノまでの距離が遠いところにいるように思います。

「開眼」は最近気に入っている言葉ですが、まさに「物が見える」っていうのは開眼。

カッ!

という感じですよね、開眼ってなんか。

民藝館から帰り道を歩いていたら、通すがりの建物の塀に、お、お皿?

 

いつもは自転車でぴゅーっと過ぎ去ってしまうところに、見えていない物もある。「知っている」というのはいつもほとんど嘘に近い言葉。知らないことはたくさん。
ひょんなところで、すてきなお皿を発見したらちょっとお得気分。


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