2012年5月30日水曜日

I have a dream


自分が蝶になった夢を見たのか、蝶か自分になった夢を見ているのか。

という話があるように、夢のことを考えると疑問が尽きない。

パッとあらわれるイメージ。


自分から生まれたものとは思えないような、知らないこと、見た事のない風景、意外な登場人物。


夢の中ではこれが現実だと思い込んでいるのに、今この現実と夢を区別できているのはなぜなんだろう。


支離滅裂なイメージのなかでも、目が覚めて思い出せばどうにかストーリーができてしまう。


いつかの私や、ある時点の私を思い出すと、全然違う人のように思えるときがある。でもよくよく考えると、ところどころ今の自分との共通点を見つ出して、ああ私なんだなあと感じる。


もしかすると現実も夢と同じように断片的なもので、記憶によって無理やり一つのアイデンティティに統合しているのかな、と思ったり。人はストーリーが無いと生きていけない。


時計を見て、またもう一度目を戻すと、文字が変化している。それは夢の中にいる証拠。これは驚きだけど、夢の中では文字は、絶えず違う文字や別のものに変化しているという。


この間、金環食を見たあと二度寝をしたら、もの凄く鮮やかなスカイブルーの空に超巨大な真っ白い月が半分だけ浮かんでいる夢をみた。


強烈なイメージが頭にずっと残るなか、昔見た夢についても思い出したりしていると、一体寝ている間に私は何の作業をしているんだろうかと気になって仕方が無い。



なので、夢についての本を1冊だけ読んでみました。


『脳は眠らない 夢を生みだす脳のしくみ』アンドレア・ロック

難しい話になりすぎないよう、これまでの夢に関する研究を追いながら、脳科学が明らかにしてきた夢の面白さを教えてくれる本。著者は医療分野を中心に活躍しているジャーナリスト。最新の研究を面白くつなげて読み物にするのって大変だろうなあと思うのに、重すぎず軽すぎず、さらりと読める本になっていてすごいです。興味深い点を分かりやすく、ちょうどこんな感じの本が読みたかった!と今の気分にぴったりな本でした。
  
そもそも夢の基本的な役割は、生存のためのリハーサルと言われていて、覚醒時に体験したことを眠っている間にリプレイしたり、記憶の結びつきを強化したり、整理統合をしているそうです。

例えば、うたを歌う夢を見る鳥がいます。実際には、さえずりを行っている時と同じニューロンの活動が寝ている間に見られるということですが、これにより鳥が寝ている間に聴覚信号をチェックしながら歌声の調整をしていることが分かっています。
それと同じように、音楽家やスポーツ選手などが新しい技術の練習をして、1日か2日すると、その間練習を重ねていなくてもパフォーマンスが向上する場合があるようで、夢には学習の成果を上げる機能があるといわれます。

そう考えるとこの本のタイトル通り、
まさに脳は眠らない !

変な夢ばかり見せるので、脳は何をしてるんだろうと心配でしたが、この本を読むと寝ている間に脳が行っている作業量の多さと眠らない脳に改めてびっくりします。

他にもなんとなく聞いた事のあったことから、驚きのことまでさらに深く考えてみたくなる発見が色々。そのなかでも一つだけ。

新聞の記事を半分まで読んだとき、あれ何を読んでたっけとなった時は、脳の中ではノルエピネフリンとセロトニンレベルが下がり、アセチルコリンが急増している。つまり夢を見ている状態とよく似ている状態だそうです。実際、制作中の画家か作家の脳内の活動を調べれば、レム睡眠中の脳と同様の活動が見られるだろう、とありました。夢中で想像力を働かせているときが夢と似ているというのは、「夢中」という言葉がまさに表しているようで、これはとってもおもしろい話でした。
また、起きている時は、論理的思考を司る脳の領域が働いているため、一貫性を保っているように見えますが、よく思ってみれば混沌とした思考がずっとあるのが分かります。つまり、覚醒時も夢を見ているときも状況はあまり変わらないということ。結局脳にとっては、現実と夢とはさほど違いはなく、単なる作業環境が変わるだけのような話。

そんな夢の世界を描いた映画を1本見ました。


『ウェイキング・ライフ』

現実と夢の違いを曖昧にするためなのか、実写で撮ったものが全編デジタル・ペインティングされていて、独特な浮遊感を感じることのできる映像でした。脈絡もなく次々と登場人物が現れ、哲学者のことばから学問的な話まで、とりとめもなく現実や夢や人間、この世界についてへの問いがいくつも重なっていきます。絵も常にグラグラしていて、話には特別な展開もないので、映画というより映像と呼ぶ方がいいようなものでした。

でもこういう世界もいやじゃない、と何となく思います。
物語も好きだけどイメージが継ぎ足されていくような混沌とした世界のことです。

それは混沌そのものが良いというのとはちょっと違うような気もしました。
どんなデタラメなことにでも意味を持たせようとする性質が人にあるからこそ、この混沌の中についつい連続性を見つけたくなる衝動が起こり、イメージの世界に惹かれてしまうのかもしれません。

夢について思う、ちょうどいい1冊と1本でした。


2012年5月22日火曜日

古典なう


國學院大学伝統文化リサーチセンター資料館、という長い名前のところへいってきました。
渋谷の國學院大学の敷地内にありますが、ここは大学の研究活動の成果を広く公表するという目的で2008年に開館した施設だそうで、古代の祭祀、神社の祭礼にまつわる様々な資料が常設展示されていて、一般にも無料で公開されています。

土器や埴輪など、はるかむかしの遺跡からの出土品をゆっくりと眺めることのできる、私にとっての都会のオアシスであります。

おひさしぶりです、ハロー!

どう考えてもハローと答えてくれている埴輪に心やすらぎます。

いやはや・・
とこの方は言っているでしょうか。遠い目をした表情が何ともいえません。

今回は「物語絵巻の世界」という企画展が行われていたのでそれを見てきました。


古くから物語文学が発展してきた日本では、それとともに物語が絵画化され広く伝搬してきた文化がありますが、物語と絵の関係はどのようなものであったか、國學院大學の所蔵する「伊勢物語絵巻」と「竹取物語絵巻」を中心に、時代や媒体による構図などの違いを見るという内容でした。

こうやって展示されている絵巻や絵入り本を見るときには、やっぱり絵のことばかり気になりがちです。きれいだなー、すてきだなー、なんか変な絵はないかなーと探してみたり、工芸品としての絵巻、絵画表現としての絵というふうに見てしまって、テキストのことは頭からほとんどほっぽらかしたままでした。

それはそれで時には良いのですが、古典文学の教養も含め、もっと歴史的な面からもちゃんと理解したい! と・・ ただ遠くから眺め憧れるだけでは、自分のなかで死んだ文化になってしまうなあと。今回思ったことはそのことでした。

「伊勢物語」を解釈するために、室町時代からは数多くの注釈書が作られたそうです。その時代でも注釈がないと理解できない古典として「伊勢物語」が存在していたこと自体、そもそもピンときてないことでしたが、物語が絵画化され流布していくにあたっても、その注釈書が影響を与えたということでした。

竹取物語絵の比較の方では、武田祐吉氏旧蔵本と、ドナルド・ハイド氏の旧蔵本なるものが並べられていましたが、同じような場面でも細かい表現や構図も少しずつ違っています。また、別の小型絵巻ではその形の都合上、本文が改訂されている箇所があったりと、比較して見比べることで元の物語の展開の仕方がそれぞれで違うことが分かりました。

さらに江戸時代になると、大名や豪商が娘の嫁入り道具としてこのような物語を絵巻物として絵双紙屋に作らせるという文化活動が活発になっていったそうです。
出版の形が確立されていくそのような時代のなかで、だんだんと本文も固定化されていったりしたそうですが、絵が必ずしもことばに忠実でなかったり、解釈の違いが絵の違いに表れて見えることはおもしろい見所でした。

古典と呼ばれるものは、今でも舞台やオペラやバレエや映画や様々な形で、何度も何度も再解釈され生き続けているように、あらゆる解釈に耐えうる普遍的な物語が作り上げられたことがまずはもの凄いことだと感じさせられます。そして誰かの見方による解釈の違いと、その再解釈の積み重ねがその物語をさらに強くしていったのだと思うと、解釈を作り上げることは作品と同じくらい価値を持つ物だと思いました。

そしてそれを今の時代から見る/読む/聴くという行為自体が、再解釈や再編集を積み重ねることの一部でもあると思うので、過ぎ去りし文化を遠目で見るのではなくて、時代をくぐりぬけてきた素晴らしさをもっと近い距離で改めて生きたものとして感じたい。そのためにはもっといろんなことを知り理解したい。しかしなんだか足りないことが多すぎる、妙な教養コンプレックスになったようです。


この人が日本に生きていたころから今までの間に、いろんなできごとがあったんだなあ。今日は金環日食がありました。ただ今生きていることが歴史になっていくふしぎ。


2012年5月20日日曜日

国立新美術館ってなんだろうか


国立新美術館で開催中のセザンヌ展に行ってきました。この前行ったポロック展のように、これほど一挙にセザンヌの作品も見られることは無いと思うので貴重な経験であったのですが、、、、

いつも国立新美術館に訪れると感じる違和感。

そもそも今なぜ「セザンヌ展」なのか分からない違和感。今年は開館5周年ということでその企画の一環。それでもよく分からない。

美術館として何かしっくりこない妙な感覚。
それが何なのか分からないままにしてきましたが、これを機にはっきりさせることにしました。だいたい美術館をよく利用するものとしては、もう少し美術館そのものに対しての基本知識を持っておこうと思い調べてみました。

その謎は意外とすぐに解けて、国立新美術館の英語名称がポイントでした。
THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO
ナショナルアートセンター。美術館でない。

この建物の構想は、もともと美術団体からの要請により始まる。
それまで日展などの公募展は東京都美術館で行われていたが、面積の狭さの問題があり、もっと充実した作品発表を行うためのスペースをと何度と国に求めていたそうである。それが本格的に計画されることになったのが1995年頃。当初は「ナショナル・ギャラリー」の仮称で計画が進められていた。ワシントンやロンドンのナショナル・ギャラリーを意識しての名称か、施設の役割としても“芸術文化の育成と国際的な情報発信の拠点”として期待をかけられ、美術団体の代表や評論家らを中心に調査が始まっている。

詳しい経緯はこちらを見ました。
ナショナルギャラリー(仮称)とは何か? 美術ジャーナリスト 藤田一人

さらに予算を押さえるために収蔵品を一切持たず、費用のかかる展覧会をしない方針に決まっていった中で、ナショナル・ギャラリーという名称がふさわしくないという批判もあり、作品を所蔵・保存するという通常のミュージアムでも無いので結局英語名をアートセンターとし、しかし美術団体からは「美術館」であることの必要を求められ「国立新美術館」と決定されたということでした。

建設費は380億円と言われ、国内最大級の14,000㎡の展示面積をもつ国立新美術館は、つまり公募展と企画展のための巨大な貸しスペースだったのでありました。

もしやこれがうわさのハコモノ行政というやつ?
ちょっと前に「マンガの殿堂」 とか言われていたものを思い出しました。

新聞社と共催で集客を大きく見込める企画展が多いわけも分かり、また訪れた際に見かける公募展が確かにあるなと思い、何をモットーとしているか分からず目的が見えないところに違和感の元もあったのかと思いました。

国立新美術館のサイトに掲載されている事業内容。
1. 展覧会事業 「さまざまな美術表現を紹介し、新たな視点を提起する美術館」
2. 情報収集・提供事業 「人と情報をつなぎ、文化遺産としての資料を収集・公開する美術館」
3. 教育普及事業 「参加し交流し創造する美術館」

もはや批判とかではなく、立地もスペースにおいてももったいない感じが凄いので、アートセンターならアートセンターとしてこれから何かを主張していってほしいという希望です。なんというか単なる大型映画館の気分にもなり、アートを扱っているからこそできる提案や、バリバリ感を演出してほしいなあと思いました。公募展の会場も入りたくなるような何かがあれば。。。

2番目の情報収集の点については、実は日本で一番展覧会カタログを所蔵しているということ。この前はじめてそれらが閲覧できるライブラリーにも行ってみたので、これからもっと利用してみたいと思います。


そこでもう少し美術館について知ってみたかったので、以下の本を読んでみました。


『美術館商売―美術なんて…と思う前に』 安村敏信

サイトを見ているといつも心引かれる展示があるなと思い、しかし遠くて行った事の無い板橋区立美術館の館長である安村敏信さんの本でした。

日本では他の国と比較しても公立の美術館の割合がかなり多く、行政が関わっている分コレクションの方針や予算面、見せ方など様々な点において長期的展望が無かったり、建物先行になったりと問題を抱えているようですが、この本に書かれている板橋区立美術館はどうしているかの話はとても面白かったです。もっと大勢の人にどう楽しく見てもらえるかという基本的な方針があるからこそ、この本についても興味のない人でも分かりやすく読めるよう変に難しく書かれていない良い本でした。小さい美術館だからこそ出来る実験的な視点を持った展示や、なぜ/今/この/作品を見せるのかの問題、意味のあるコレクションにするには、などの話は大きな美術シーンにも当てはめて考えることもできるし、美術館入門として分かりやすい内容です。


『美術館の可能性』 並木誠士, 中川理

こちらは少し専門書っぽい雰囲気でしたが、わりと読みやすい本でした。学芸員経験を持つ並木誠士さんという方による美術館についての現状や制度に関する話と、建築史が専門の中川理さんという方による建築表現としての美術館、地域の「まちづくり」という視点から見た美術館の話という二つの方向から書かれた本です。
常設展より企画展が美術館のメインイメージになっている日本では、歴史を遡ってみても、そもそも公立の美術館は博覧会的に見せるところから始まっていて、作品の収集や保存ありきの発想が重要でなかったことが分かります。さらに現在の公立美術館の運営の課題となっているのが、2003年からの指定管理者制度というもの。施設の運営・管理を一定期間ごとに法人・その他団体に任せるという制度。それから国立新美術館含め5つの国立美術館を運営している独立行政法人の体制についての話。

そういえば事業仕分けというのがあったなと思ったら、国立美術館の仕分け時の議事録みたいなのもWEB上で見れました。買いたいものが買えないというお金に対する訴えの話だけのようでしたが。

行政刷新会議ワーキンググループ 「事業仕分け」 WG-A pdf資料




『大型美術館はどこへ向かうのか?』 森美術館編

これは2007年に森美術館で行った公開シンポジウムの内容をまとめた本で、ニューヨークMOMA、ポンピドゥーセンター、テートモダンのそれぞれの館長の講演録や美術専門家へのインタビューがおさめられた内容でした。
3つの大型美術館ともに分館の建設、敷地拡大など美術館の拡張を進めていることに対してどういう目的や背景があるのかという話が重点的にありました。
ほかに印象的だったのは、MOMAの館長の話にあった観客の開拓の発想でした。美術館は見せたいアートと共に進化しなければいけない、そのために新しいものや冒険的な動向を理解し美術館の活動に満足してもらえるよう観客の教育することが課題。かつての人を選ぶ美術館から、よりオープンな美術館へ。美術館の経験に期待を持たれ、信頼されているからこそ、若く多様な観客がMOMAを訪れてくれる。というような話でした。


3つの本を読んでみましたが、美術館の形が多様なので何が良くて悪い、こう在らねばみたいな共通のものは無いと思いました。日本では公的な美術館が多いからこそ地方でも美術作品に触れる機会を享受できるといういい面があるなら、それを活かした日本なりの美術館のあり方があるんだろうし。ただ公的である反面、それは美術館だけじゃなくどこでもよくあることだと思うのですが、責任者不在的なことによる誰も望まない指針をいかに少なくするかみたいな事も何だか大変そうで。。

しかし公共の館好きとしてひとまず最低限は美術館について知れたと思うので、大変勉強になりました。



2012年5月16日水曜日

感想 「KATAGAMI Style」いってきました


三菱一号館美術館で開催中の「KATAGAMI Style」へいってきました。
展示品の数が約400点とかなりのボリュームで、全部見終わる頃には疲れ果ててすごーくお腹がすいたという思い出の残る展覧会でした。


展覧会のテーマは、日本の型紙のデザインが西洋芸術に与えた影響について。
型紙そのものを見るのも初めてのことでした。

着物や文様染に使われた伝統的な日本の型紙の数々と、特に19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの工芸品を中心に、型紙のデザインがどのように取り込まれているかを見る事ができる展覧会でした。
また、サブタイトルには「Paper Stencils and Japonisme」とあり、これまでジャポニスムと言えば特に浮世絵などに焦点が当てられ、印象派やアール・ヌーボーなどの美術運動にはそれらの彩色や平面的構図の影響があると多く言われてきましたが、今回は「型紙」を通してジャポニスムを探るという初めての試みになっているということでした。

与えた影響、と一括りにいってもある特定のジャンルや場所に限られているわけではないので、結果的に展覧会でのカバーする範囲がかなり広くなっていて、世紀末ヨーロッパの工芸品展のような感じでもありました。

イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動、ベルギー、フランスのアール・ヌーボー、ドイツのユーゲントシュティール、ウィーンの分離派、さらには現代のプロダクトデザインまで。型紙スタイルは様々なところに受け継がれているということで、ジャンルも家具やガラスや壁紙など様々なものたちが・・・ それも国内外の約70カ所の美術館・博物館から集められたそうで、3階に分かれたあの建物の中にこんなに沢山運ぶのは、さぞかし大変だったろうなあと思うほど分量があります。そして大量のモノを見ることに力を使うとお腹がすくということが、今回をもってはっきりと分かりました。



左:建築家ヴィクトール・オルタによるタッセル邸(1893)、最初のアール・ヌーボー建築といわれる。
中:美術商サミュエル・ビングの店「Maison de l'Art Nouveau」(1896)、アール・ヌーボー(新しい芸術)の呼び名はこの店の名前から一般化した。
右:オーブリー・ビアズリーによる『サロメ』の挿絵(1894)、アール・ヌーボーを代表するイギリス人画家。

そもそもあのうねうねとした装飾的なアール・ヌーボー形式は、単品でみると綺麗さを感じることがあっても、流行として存在している時代って、ちょっと怖くもあり、気持ち悪いなあと思ってしまいます。

今回見た型紙デザインも、見事うねうねに取り込まれ独特の世界観に溶け込んでいっています。本来日本人が好んだポイントとは少し違った部分で、型紙デザインは時代の潮流に発見され新しい表現の一種として各地のデザインに落とし込まれていったようです。

もともと日本美術でも曲線的な表現が多いといっても、そこにはやっぱり日本的な余白や構図や風流な世界観など様々な要因が重なって独自の涼しさ、カッコよさがあると思うのですが、そういうところがまんま伝わったわけではないということも再認識できました。

例えば鳥のモチーフひとつとっても、型紙に見られるものと各地の表現では、顔が外国風になっていたりして、日本的な感覚から見るとやっぱりコテコテして見えます。
最もあたりまえなことですが、型紙というジャポニスムも、やっぱり土地土地で解釈されて利用され、他の要素と交わり新しい芸術の形を生むことになった一つのソースということでしかないと改めて思いました。

ジャポニスムをはじめクールジャパンとか、世界にいかに日本的なものが賞賛されたり受け入れられているかということが多く語られたりしますが、解釈はバラバラで多様なので、評価を外部に委ねすぎたり、過剰に反応するものでもないのだと思います。

でもこの時代、明治期に入った日本はヨーロッパへの視察団などを送る中で、芸術面ではそのアール・ヌーボーに大きな影響を受けた人たちが、日本に戻って自分たちの作るものに早速取り込んだりという文化のループがあったりして妙な感じでもあります。

アール・ヌーボーについて、この3つの本を読んでみました。


『アール・ヌーボーの世界』海野 弘

初版が1968年だそうですが、この頃50年代に世界各地でアール・ヌーボーに関連する展覧会が開かれ、欧米でも60年代に再評価が始まったばかりという時代で、それほど研究者もいない状況でまとめられた本だそうです。

『世紀末芸術 新装版』高階秀爾

こちらも初版が1963年で同時代の本です。こちらは特にアール・ヌーボーと題されていないですが、この時代の芸術の背景や特質についてなので、自動的にカバーされています。どちらの本でも、特定の芸術ジャンルや様式を掘り下げるというより、世紀末を覆い、新しい芸術を生み出した時代の全体や精神性を捉える方に重点が置かれています。そしてその精神性が関わるがゆえにというか、文章もすっきり論理的ではなく若干読みづらかったです。文学からの影響、心理・哲学、過去の歴史への回帰的趣味などあらゆる要素が世紀末芸術に繋がっているため、知識のなさからピンとこない部分があり読みにくかったものとも思われます。


『ジャポニスム―幻想の日本』馬渕明子

こちらは比較的最近の1997年に出た本でした。ジャポニスムの影響を過大評価しすぎず、冷静な視点からの、モネ、ゴッホ、クリムト、北斎などについての研究がまとめられた本です。その視点の部分が気になり手にとってみたので、全体を通しては読めていません。ヨーロッパが日本的なものから何を選び何を選ばなかったのか、画家が取り入れた表現方法に込めた意図は何なのか、作品を追いながらジャポニスムと言われる本当の部分を考えることのできる本なのかなと思います。

そうするとジャポニスムという表現が、日本人にとってはおおごとのような気にさせるのかもと思ったり。。
つくられたジャポニスムのイメージを通して自国の文化を解釈している面もあったり。なんとなく名前の紛らわしさというか不都合さを感じる、、なんせ国名が入ってるしなあ。でも違う名前だったとしても同じなのかなあ。