2012年10月24日水曜日

感想 「田中一光とデザインの前後左右」いってきました


21_21DESIGN SIGHTで開催中の、「田中一光とデザインの前後左右」展へいってみました。

日本を代表するグラフィックデザイナー、田中一光さんが亡くなって10年。その幅広い仕事の数々を振り返る展覧会でした。まったく知らなかったので、田中さんが手がけた装幀本、ポスター、企業のロゴなどをはじめとしたクリエイティブを見て、あれも?これも?と、馴染みのあるデザインが実は田中さんによるものだったと知り驚きました。

  

経歴を見ていると、田中さんの活躍が大きく展開していくのは1960年代ころから。ちょうど日本の経済成長とリンクするように、日本のデザインシーンの発展を牽引してきたという人。

存命であれば、82歳。ちょうど自分の祖父母と同じくらいの歳ですが、田中さんの力強いグラフィックデザインの世界を見ていると、こんなカラーで彩られた時代をうちのおじいちゃんは生きてきたのかしら、と同じ時代を生きた人とは思えない。。

力強さ。田中さんのデザインによるものや、田中さんの作った「光朝」フォントを見ていると、切れ味鋭い洗練された強さを感じました。それはやっぱり時代の感覚からなのか、現代っ子の、特にわたしには少し強すぎると感じるほどに。
あくまでデザインなので自己を表現するものではないにしても、一寸の狂いもないほどに計算された文字やそのフォルム、配置されたすみずみからピリっと凛々しい一本筋が感じられました。もしかすると時代云々のせいというより、自分自身がふわっと曖昧だからこそそこに微妙な反発を感じたのかもしれません。


「デザインの前後左右」という展覧会タイトルは、
「前」  今日感覚から展望した未来
「後」  日本の古典と市民文化の継承
「左右」 国際・地域交流とグローバルな視点など
を意味するそうで、田中さんの同名の著書からつけられたタイトルだそうです。
朝日新聞デジタル:伝統と未来への視線 「田中一光とデザインの前後左右」展

『田中一光とデザインの前後左右』

この本は今回読んでいないですが、その他の田中さんの本を2冊手に取ってみました。

『田中一光自伝 われらデザインの時代』2001

あまりにもあっけらかんとしたというか、想像していた自伝の感じとは違ったのでちょっと驚いた本でした。そして自分の本は装幀をそこまで凝らなかったのかなという不思議もあり。
深く内省するような内容ではなく、どちらかというと辿ってきた人生の要所要所がたんたんと綴られたような本になっていました。

『田中一光の文字とデザイン (アート・テクニック・ナウ)』1994

こちらは「アート・テクニック・ナウ」という技法書シリーズの中の19巻目にあたるもの。技法ガイドということもあって、こちらのほうがデザインに対して様々述べられていたためおもしろかったです。デザイナーさんというのは職人さんなんだなあと実感した一冊。
職人さん気質だからこそ、自己の世界に向き合っていくアーティストと違って、自伝よりも技を語った本のほうが面白かったのかなと思ったりしました。


「デザイン」についてネットのある文章を読んでいたら、
「デザインが良いのは当然」となったときに、人々のデザインへの意識が消えるようだ。といった事が書かれてありました。
JDN デザイン ゼミ 補足説明 「デザイン」という言葉

じゃあ「なんとかデザイン」という言葉が世の中に今あふれているということは、何か良くないものがいっぱいあるからなの? と思ってしまいます。

「デザイン」という言葉が元々日本に入ってきた時、日本語では「意匠」という語がその訳としてあてられたそうです。本来、“ある目的のために計画をしたことを可視的に表現する”というのがデザインの意味だそうですが、訳語としての「意匠」は外観を美しくするため、という表面的に工夫をする意で理解がされてきたそうです。
「意」「匠」と字をそのまま捉えたほうが、本来のデザインの意味に近いような気がするところを、なんとなく惜しい解釈です。そして「デザイン」という語に対する日本語がそもそもなかったことについては、それだけを考えていくととてもおもしろい話になりそうです。

とはいえ、今は「デザイン」のあふれる時代。
かつて物事がもうすこしシンプルだった時代と比べると、今では社会や生活や情報がずいぶん複雑化されきて、それらをもっと心地いいものにするために今「デザイン」がたくさん必要とされてきているのかな、とあふれている「デザイン」の言葉について思うことでした。



田中さんのものを今回色々見たなか、なんだかこれがとても素敵だなと思ったものです。
『アート・テクニック・ナウ』の最後のページにあった活字と手書きの合体。


2012年10月21日日曜日

感想 「機械の眼 カメラとレンズ」いってきました


最近になってやっと写真のおもしろさに興味を持つことができました。というのも「写真」が当たり前のものすぎて、今までなんにも考えてこなかったからです。
もっと写真を積極的に見よう。
ということで、東京都写真美術館のコレクション展「機械の眼 カメラとレンズ」を見に行ってきました。

展覧会は、国内外の名だたる写真家たちの作品が160点ほど展示されていました。見たことあるような有名なものもあり、一気に色んなタイプの写真を見られたので初心者としても楽しめる展覧会でした。

写真を見ることで考えさせられる、人の眼とは違う“カメラのものの見方”。展覧会では、写真初期のころから現代のものまでが見られることで、機械自体の進歩や技術の発展によって、急速に在り方が変わっていく写真について、また「フォーカス」「レンズ」「露光」「ブレ」「人工光」などの特性で括られた構成によって、いろいろな側面から写真を考えることができ、考えれば考えるほど写真はふしぎでおもしろいと思いました。


そのように、様々なことを考えさせられる写真という存在。
だからこそ、今わたしは写真の罠にはまっています。
ここからは展覧会自体の感想ではなくて、写真についてはじめて感じたこと、ひっかかったことを書き残して、これから先写真について探求するときのための足がかりにしようと思います。


「写真」とひとことで言っても、決して一括りにはできない。考えようとすると色んな見方がでてきます。考えられる視点の可能性がたくさん内包されているように思えます。
写真は何を隠し持っているんでしょうか。

それは展覧会のタイトルでもある「機械の眼」としての写真。
カメラという機械で写し出された「現実」は、わたしたちの眼とは違う視覚的特徴を持っているからこそ、括弧で括りたくなる「現実」がそこにあるようです。写真作品を見ていると、いま見ている世界に対してのふしぎが一気に湧き出てくる感じに陥りました。その写真に刻まれた像と今見ている世界とのブレが大きければ大きいほど、よりカメラの眼を意識せざるを得ません。人が主観的にシーンを選びシャッターを押しても、写し出されたものは、無意識なものまで全て意識化させるような「機会の眼」が介在するので、やはり別の「現実」になるような気がします。
何千分の1秒の瞬間の「現実」。肉眼では決して見られない「現実」。目の前の現実とまったく同じに見える「現実」。
考えもしない視点をもたらしてくれる「機会の眼」の存在があります。


それは広範囲な役割を持ち合わせている存在としての写真。
見渡せばどこにでも溢れている写真を思うと、写真の発明ってすごい事なんだなあと再認識しました。
真っ暗な部屋にポツンと外に通じる穴が開いていたら、そこから入ってくる光は反対側の壁に倒立した外界の像を写し出す。という光の原理。
ただただ不思議なその現象を、カメラ・オブスクラという装置にし、投影された画像を定着させるために試行錯誤が繰り返され、カメラの技術が生み出されていったということですが、急速に発展を遂げたカメラは、今やだれもの手にある状態。
そして写真の役割は、肖像、芸術、記録、報道、商業写真、、とカメラが手軽なものになるにつれどんどんと広がり、見渡せばイメージはどこにも溢れている今。
写真は芸術か否か、など議論されていた時代はもうすでに終わってしまった感じです。担っている役割はさまざまで、さらにデジタル化された写真にまでなると、写真は単純に一括りにできないです。こちらも何がなんだかです。意識するまでは単なる1枚のpictureに過ぎないけれど、こちらが何かを考えはじめれば、いろんな役目を果たしてくれる存在。


それは個人の拡張現実のような世界をもつ写真。
絵を見ていると、画家は山を下から登りながら描きたい真理にアプローチしているような感じがするのに対して、写真家は写真に写し出されているはずの真理の解釈と格闘しているような感じがしました。そして手に持つのは融通のきかない「機械の眼」。となると、写真家の人たちはそれぞれ何を考えながら写真をとっているんだろうか。写真について語られる言葉にも興味をそそられていきます。

「言わしむればーーーとにかくうつそうと思った時、うつした方が一番良いと言うことになるようだ。理くつでうつしたのでは第一に芸術に反する。理論はその中に含まれたもので、含ますものでないとなると芸術写真のうつし方てな本は既に命題から間違っていはしないか?」 木村伊兵衛『僕とライカ』

はじめから真理を意図して内包させたようなもの。確かにそういう創作物に、心の底から感動することは無いように思います。心を動かされるような体験は、そう簡単に因数分解して作り上げられるものではないっぽいです。以前ロベール・ドアノーの言葉を探した時に、「目覚まし時計を解体すれば、時間が分からなくようなものだ」とありましたが、その感覚にも近い言葉です。“全体は部分の総和ではない”というなんだかゲシュタルト心理学的な感じの話でもあります。

うつそうと思った時の写真。「機械の眼」といってもそこにそれぞれの写真家の主体的な感覚が加わることで、とても個人的な世界がそこに出来上がるように感じられます。機械の眼に個人が付与され写し出された写真は、個人によって何かが増大したような「現実」。それは、その人の思考や世界の拡張現実的な存在にも思えます。


という感じでつらつら考えていると、今まさに私は解体するように写真を見ている感じがして、どうも罠にはまった気がするのです。。
それでも「機械の眼」というタイトルは、とても考え深いことばです。いろいろ考えるのに飽きないキーワードでした。そしてどうもこのことを考えていると、神林長平さんの小説が思い出されます。雪風三部作目のようにすべてが意識化された世界に入り込んでしまいそうになります。

これから少しずつ写真についての本も読んでみたいですが、とりあえずこの機会に手に取ってみた本。


『写真、「芸術」との界面に』光田由里 2006

著者の方は松濤美術館の学芸員をされているらしく、野島康三の展覧会の担当がきっかけで写真史の研究に入ったというようなことで、美術史からの視点も含まれているようなところもおもしろい本でありました。福田伸三、野島康三、村山知義、中平卓馬などの人物にフォーカスしつつ、1910年代〜70年代までの日本の写真史も何となくわかるような本でした。


カメラの特性を色々見られた展覧会でしたが、なかでもすきだったのは「長時間露光」のゾーンでした。肉眼では見えない光景、静止しているのに時間が含まれている世界。なんとも不思議な気持ちになりました。


いつか何かを撮った時の写真。