2011年12月29日木曜日

想像のかたまり


ハーモニウム(Harmonium)
水星でこれまでに発見された、ただひとつの生物だ。ハーモニウムは、ほら穴に住んでいるんだよ。これよりも美しい生物はちょっと想像できない。
(『いろいろなふしぎと、なにをすればよいかの子ども百科』)


これまで色々な物語の中で生まれてきた空想上の生き物。。。
そのなかでいちばん美しく素敵な存在は、この本のなかに。


『タイタンの妖女』
カート・ヴォネガット・ジュニア(1959)

SF小説で世界観に入りこむまで読み進めにくいけれど、全て読み終わるとおとぎ話を読んだような感覚になる。不思議。むかしからあるような神話みたいで、完璧で残酷な物語。

話の中で主人公が水星に彷徨い着いたとき出会うのが、ハーモニウムという謎の生き物たち。性は一つしかないし、感覚は触覚しかない。
彼らは弱いテレパシー能力を持っているけれど、送信し受信できるメッセージはたった二つだけ。

"here I am(ボクハココニイル)"
"so glad you are(キミガソコニイテヨカッタ)"

。。。たったこんな言葉が、じじじじーんと胸を打つ。
その感動を味わって以来、ずっと心に残っている言葉。こんな見事なコミュニケーションあるかな。そんなことで、わたしのブログタイトルもここから付けてみたりしたのです。

この生き物は、小さな菱形で半透明になっている。水星の洞窟の壁からは黄色い光がでているが、その透明体を通り抜けるとき、光はアクアマリンの色に変わる。何の意味もないけど、その色と形をつかって、壁の上で整列し模様をつくって遊ぶ。水星がうたう歌を食べて生きている・・・そしてその音楽好きなところと、美への奉仕のために熱心に形づくろうとするところから、地球人たちがハーモニウムという美しい名前を与えたという。そんな素敵な生き物。


あたりまえだけども
やっぱり物語は物語で
音楽は音楽で 
絵画は絵画で
それ以外では表せないものが凝縮している。

どれだけここでハーモニウムを説明しても、物語の中でこそじゃなきゃ味わえない感動がある。その興奮を人はどうしても伝えたいから言葉で表そうとするけど、言葉とはなんてはがゆくて不完全なツールなんだろう。だからハーモニウムに憧れるんだけども。

作者がこの生命体を思いついたときにはどんなイメージが巡って、どんな感動があったかな。全然考え及ばない。でもハーモニウムまでの美しい想像はできなくても、その端くれは誰の日々のなかにもちりばめられてるんじゃないかな。


..それはふと目を落としたコーヒーカップの中に ?


..それともレンズを通せば見える光の流れの中に ?

いつか想像のかたまりになるといいな

2011年12月14日水曜日

ゆうやけ こやけ

なんにもない休みの日、
はっと気づくと気配を感じる

ゆうやけとこやけの。

 2010/8/27


遠くの空もよく見える この家に引っ越してから2年くらい。
いろんなゆうやけとこやけがありました。

   2010/11/13, 2010/9/10

こんなに良いものを何度見過ごしているのか。
日没の時間帯は夕焼け鑑賞を優先してよい、
という「夕焼けの自由」の時代がくるといいな。

   2011/12/2, 2010/10/9

本格的なゆうやけも感動的。
だけどだんだんと無くなっていく色の中の
こやけもまたよい。

   2011/10/23, 2010/12/31

何も考えず無の境地にいけるような。
この空を鳥に乗って飛びたくなる。ニルスみたいに。

   2010/8/28, 2011/12/10

この夕焼け 夢気分にぴったりくるような
音楽や何かがないかなと考えていたら
なんとなくこの詩を思い出した。

生きているということ いま生きているということ それはミニスカート それはプラネタリウム それはヨハン・シュトラウス それはピカソ それはアルプス すべての美しいものに出会うということ(谷川俊太郎 「生きる」より)

ミニスカートのところがいいなあ。

2011/10/19

象を使って雲を吸い取らせてみたい。

2010/11/2

ゆうやけ。こやけ。
またね〜。

2011年12月6日火曜日

『古美術と現代』吉沢忠

昭和の時代に活躍された美術史家、吉沢忠氏の本を読んだ。

吉沢忠『古美術と現代』(1954) 東京大学出版会


奥付を見ると、著者の住所欄まである。定価は330円となっていて、時代を感じる。戦争が終わって9年、1954年(昭和29年)に出版されているのでもう60年近く経つ。

内容は、当時の美術政策に対する批判や、美術界・古美術界の実情、芸術の本質について、また観賞者の立場や現代画家の問題点など、吉沢氏がいろいろな雑誌などに寄せた40本ほどの文章を収めた作りになっている。謙虚に、でも鋭く、真摯な文章。

戦後からの60年という時間は、物事が発展するのに十分な長さを持っているような気がするけれど、この本で書かれた美術の世界に対する問題意識などは、読み終わってみると学ぶこと、考えさせられることがあり、内容については決して古いという感覚がなかった。それはこの60年のあいだで、それほど大きな変化がなかったということなんだろうか。

この本の中にあえて基調をなしているテーマがあるとすれば「日本美術における伝統と創造の関係」といえるかもしれない、とあとがきにある。もしかすると2011年の今でも、このテーマに対する状況がそれほど変わっていないからなのかもしれない。時代感覚があまりピンとこないけれど、今の自分の親が生まれたのが大体60年くらい前。その頃と現在とを考えると、表面は大きく変わって見えるけれど、本質はそれほど変わらないような感じもする。


現代の日本の美術は、自分の中に生きている古典をもたぬ。


という指摘がいくつかの文章を通して見られた。美術の世界だけでなく言えることだろうけれど、この一文を読むと、自分のことを省みて心が痛くなる。無意識に影響を受けながら、日本について知らない事が多すぎる。世界との距離が近くなり、客観的な日本人としての自分をより認識させられるような時代になって、今を生きる人たちはうすうす、、というより深刻に、日本の伝統や過去についてしっかり消化することの大切さに気づきつつあると思う。

過去と向き合うこと、過去との「対決」をしていないと吉沢氏いわく、古いものが、ずるずると、かすのように私たちの中にこびりついてしまう。

ずるずるとした かす・・

例えば、形式を受け入れることが伝統を受け継いだかのごとく錯覚し、形や技巧だけを踏襲したような形骸化した美術を生みだすこととなる。過去と対決できていないということは、つまりその現実ともきびしく対決できていない結果である。この本のあちらこちらで何度か登場するこの問題点。冷静な文章の中でも強い憂いをもって訴えられるこの点が、「日本美術における伝統と創造の関係」の問題点でもある。

戦後になると、デパートなどでも古美術展が開かれたり、古美術関連の本がぞくぞく出版されるような古美術ブームが訪れたという。過去を見つめる目がふえることは、その再評価を行えるチャンスだし、一見よろこぶべきような状況にも見えるが、安心してはいられないと吉沢氏はいう。なぜなら、過去の美術はどこか彼岸のものとして観賞され、現代の美術の創造と関係のないところで、古美術が切り離されてしまっているからだと。

過去を過去として切り離してしまう現象は、急速に発展した美術史研究が、単なる様式の変遷の解釈と、美術家たちの伝記集で終わってしまっていることに同様に見られる。日本の伝統、古典というものが形式だけのものとして解釈されてしまい、現在の私たちの中に生きているものとして捉えられない。これからの美術の創造と関わらないところで終始していることが、日本美術における伝統と創造との関係性となっている。

感覚的には、「つながっている感じ」を持てていないということだろうか。過去と現在の間に時空の歪みがあるみたいに、過去への直線を遡っていくうちに突如もう1本の平行線が現れるような。「○○時代の頃は~」と語るとき、どこか自分たちの歴史ではないような、他人事の感覚が少なくとも自分にはあるんじゃないか。

この本が出版されたのは、ちょうど高度成長の時代にさしかかった頃。だからこそよけいに、過去を清算せず急速に進んでいく時代を危ぶんで、このような問題を強く意識したのかもしれない。美術論としてだけではなく日本論的にも読める興味深い本。

日本の古美術の海外からの評価という点についても、いかにそれまでの海外での展覧会が政治色の強いものだったかという事情や、国宝や重要美術品がどのように決定されていたのか、日本の美術史研究の発展を妨げているものは何なのかという内情についても述べられていたり、純粋に作品の内容ではなく、それらいろいろの要素によって決まってきた美術品の価値や日本美術があることに、美術史の見方の複雑さを知った本でもあった。

日本のこと、美術のこと、何か色々と興味を持ったり知ったりしていこうとすると、この戦後の日本の成長期に足をとどめて過去の美と向き合った人たちのところへ行き着くことが多い。何かこの時代に立ち返るべきものがあるのか、どうなのか。。自分にとってもずるずるとしたものが何なのか見極めたいからかもしれない。

2011年12月3日土曜日

感想 「ザ・ベスト・オブ・山種コレクション」いってきました


一生のうちに、こんな絵を描けるとは
それだけでなんと幸せものなんだ

心躍るような素晴らしい絵に出会うとそう思う。

絵を描く道を自ら選んで生きる人にとって、表現したいものを表せるだけのテクニック、技術を身につけるのは勿論。その技を磨くだけでも相当に大変な道。。。だけど、自分の心は今どこにあり、何を理想とし、描き出したい本質は何なのか、という事を探し求めることのほうがもっと難しい。さらにその確信をいかに体現できるかとなると、それはもう考えるだけでも悩み、苦しみが取り巻く険しい道のり。 気が遠くなる !

自分にとってたった一枚でも理想の絵が描ければ、その画家は救われるのかもしれない。
青木繁の言葉を思い出す。

「私は今こういう考えを持っています。つまり人間というものは、紅と見えたものを紅と描き、白と見えたものを白と描くために色々と青い色もつけ黄色い色もつけてみるもので、その本然のうるわしい絶頂に辿り着かんがために、種々の境遇を通って進むものではないかと思うのです。そして一生に一枚でも立派な絵が描ければいいと思っています。」

でもきっと真理を追い求める人には、その飽くなき探究心によって、辿り着いたと思えばまた新しい道が現れるのかもしれない。

青木繁の人生史を読んだときに、美術にも心・技・体のバランスが必要なんだろうなと思った。初期の絵に潜んでいた破壊的な美のパワーも、病に倒れるまでのその不遇な人生を知ると、心身ともにその絶頂に辿り着けるまでのエネルギーを保ち続けられなかったんだなと残念だった。

そんな孤独で険しいイバラの道を通り抜けてきた作品を、山種美術館の「ザ・ベスト・オブ山種コレクション」でもたくさん見てきました。前から楽しみにしていた山下裕二先生の講演会もあわせて聴いてきました。



「ザ・ベスト・オブ」というだけの作品が並ぶ、創立45周年となる山種美術館の誇るコレクションの展覧会。前期は「江戸絵画と浮世絵」、「近代日本画」という構成。日本画はもちろんのこと、琳派や江戸の絵画、近代の洋画まで、創立者の山崎種二氏の時代から集められたコレクションは、美術界や古美術の業界で使われる「蔵が深い」という表現が、その充実ぶりを評するのに適していると山下先生は言う。

展覧会のキャッチフレーズである「教科書で、切手で見た名画、一挙公開!」というような有名作品に肩を並べて、一般の知名度としてはまだ低い知られざる名品をあわせて見せてくれるという試みがカッコいい。パンフレットの2作品は、まさにそのコンセプトを象徴とした構図になっているということ。



右は、美術関係者によるアンケートで山種コレクションの中からNO.1となった速水御舟の「炎舞」。左は近年再評価が高まっているという松岡映丘の作品から「春光春衣」。

今回初めて実際に見た松岡映丘の作品は、本当にこんな絵が一生に描けるなら幸せだろうなと、感じた驚きの作品だった。「春光春衣」の華やかさよりも、もう1点の「山科の宿」という絵巻型の作品からの一場面に衝撃。この心を動かされるドキドキを感じたくて、いろんな絵を見に行ってるんだなと実感する。突然の雨が訪れた空気、色づいた葉っぱが風に吹かれる様子、人物、着物、細部の上品な線、淡い色の重なり・・・どこからどこをとっても心を捉えて離さない素晴らしさ。

この時期ちょうど近所の桜の木が同じ色をしていたから、木の葉を見るたびしばらくこの絵のことを思い出すほど印象的な雰囲気だった。

松岡映丘「山科の宿」雨宿り

絵は生ものだということを、後で図録を見ながらひしひしと感じる。色も大きさも質感も印象も、プリントされたものと実物ではまるで別のもの。生のものを見ていないものについては、全く何も分かっていないに等しい。ましてや、画家が命をかけて描き込んだものが、印刷物に同じようにあらわれるわけもない。
先に本や資料で見ていてよく知っている気になっているものも、実物を見て、あれ?っと思うこともあれば、目にも留めてなかった作品が実際は思いもよらず魅力を放っていたりする。

会期中には「山科の宿」から別の場面が展示されるということと、次のテーマは「戦前から戦後へ」なので、どんな作品が見られるか期待がいっぱい。年明けに始まる後期にも行ってみよう。