2013年1月31日木曜日

感想 「フィンランド・デザイン展」いってきました


サントリー美術館で開催されていたフィンランド・デザイン展。
見過ごしてもいいかなあ、くらいのテンションでしたが、美術館を出るころには“間に合ってほんとうによかった”と大絶賛で会場を後にしました。

内容も構成もいつもどおり、さすがサントリー美術館ならではの、安定感と楽しさと新発見があり、なおかつ今回はとても美しい展覧会でした。

フィンランド。といえば北欧。
北欧。北欧。。

シンプルで、あったかみがあって、おしゃれな、あれでしょ北欧ってやつは。

というくらい、私のなかではその実態よりも、「北欧」の響きのほうが先行していて、これまでしっかりモノを見たり、考えたりすることはありませんでした。今回見たのは、デザイン史にも名を刻む人たちのガラスを中心にした作品や製品で、それこそ有名なものばかりですが、まあ全く知りません。あとでいろいろ知るうちに、自分が知らなすぎたことにビックリするくらい0からのフィンランドデザイン。
改めて、というかはじめて、「北欧」なるもの、そしてフィンランドに意識を向ける機会になった展覧会でもありました。

iittalaのサイト。す、すてきがいっぱい。

現代にあふれるデザインされたプロダクトを見ると、結果論ではどれも洗練されていて何を北欧デザインとするのか、曖昧に思えるところもあります。

でも時代を遡り、デザインの黎明期・躍進期・黄金期とみていくうち、フィンランドデザインにひそんでいる何かを感じずにはいられませんでした。

例えば日本のものには、どこか繊細なところとか、自然的なものとか、生真面目なところとか、なにかがあって、あ・これは日本だなというバランスがある。そういう感じで時代順にガラス製品をみていくと、ぶれないフィンランドらしさが貫かれていました。

フィンランドを代表するガラスメーカー「イッタラ」のコンセプトは、against throwawayism。フィンランドにおける生活用品は、timeless designを念頭に作られているといいます。使い捨て主義に反し、時代を超えて生き続ける美を日々の暮らしで使うモノに与える。

それがフィンランドの永遠の定番としてあるんだ、と思っていたのですが、フィンランドのデザインが台頭してきたのはここ1世紀くらいのことだそうです。というのもスウェーデンの支配とロシアからの統制を受け、国として独立したのが1917年のこと。
なのになぜこんな確固と潜むものがあるの? フィンランドのガラスの世界をみていると、単に「時代を越えたデザイン」という言葉だけでは片付けられないものがあるようです。ぶれないというか、根底に流れているスピリット。100年くらいで築き上げられたとは思えない、はるか昔からのその土地の精神性みたいなものが一緒になっているように感じます。

たまたま本屋さんでこの本を見ました。


『フィンランド・森の精霊と旅をする - Tree People -』

ちいさい、ちょっとした詩集のような雰囲気の本。
Tree peopleというくらいなので、木と人のことが書いてあったのですが、フィンランドでは木というのが人間にとって特別な存在で、自分の分身の木や、家族を守る守護の木というのがあり、何かあるたび自分の木を訪れたりと、人生と深く関わる木に信仰のようなものがあるそうで、なんとすてきで素晴らしい信仰なんだと感動してしまいました。
木や自然とつながりが深いからか、今回見た作品の中にも自然を感じさせるモチーフがあり、そんなところが日本のわたしたちからすると親しみが湧きやすくて、ほっとするところなのかもしれないです。

さらに一見美しく幻想的になイメージのフィンランドも、実際は気候風土が厳しく、歴史的にも長く苦しい暮らしを余儀なくされてきたとありました。
そんな時に支えになったのが‘Sisu’という言葉。負けない心という意味だそうです。厳しい環境が、ずっと使い続けられる、タイムレスなモノを生み出す源泉ともなり、長く使えるものにするからこそ無駄が省かれたデザインに。そこには機能的という側面も備わり、無駄を省くことでつまり洗練されていく。そんなところから生まれてきたフィンランドのデザイン。

Kaj Franck 1609 1610

人の暮らしと、自然と、時代と、環境と。

様々な複合要素があって、同じ人間なのに全く違うものを生み出す人々がいること、世界のはしからはしまで、みんな違ったものを生み出す文化を持っていること。人間のバラエティに富んだクリエイティブを見るのはやっぱり楽しいなあとしみじみします。

日本では決して生まれないような配色、感覚、透明さ。
違うところに育ったのに、例えばカイ・フランクは、濱田庄司とも親交があり何かを分かり合ってたなんて話も聞くと、同じ人間だからこそ同じく共感する部分があるということも面白く。

そしてまさにフィンランドデザインは「用の美」。
デザインやモノの世界に頭をめぐらせては、毎度柳さんのところへ帰ってきてしまう。自分の中でも柳さんの考えはけっこう大事なものになってきているようです。

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最近引っ越したら、モノについて考えることが多くなった今日このごろ。
家の中にはずいぶん「使い捨て主義」のモノがあるなあと見回したり。でも、デザインの段階で反使い捨て主義として作られたものでなくたって、モノを大切にするという心がまず私たち日本人には備わってるじゃないか、とも思ったりする。
結局ステキなものもすぐ捨ててしまえば使い捨てになり、何でもないものでも大事に使い古せば以前にみた坂田さんの古道具になったりする。どこの段階でもモノを救うタイミングはあるんだなあと。

それにしてもまずはモノを見つめないといけない・・
引っ越して特にそういう気持ちが表面化しているけど、これをずっと使っていこうとか、何を選ぼうとかって大変なことなんだなあと実感しています。新しいものを買うとか、使い方とか考えていると、モノを根本的に見つめる作業がふえます。
モノをじっと見てその存在について考えることは、必然的に「生活していこう」と前向きに思う事でもあり・・。
でもこれってもっと早くから必要だったことだなと悔やんでもいます。

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展覧会ではオイヴァ・トイッカさんの鳥をパシャパシャ激写できるコーナーがあって、みんな夢中で写真を撮っていましたがこれは楽しかったー。iphoneが鳥だらけになりました。

そしてカイ・フランクさんのことを深く知りたくて、すてきな本があったのですがお高いんです。

Kaj Franck Muotoilija Formgivare Designer

あきらかに本としてすてきなんですけどお高いんです。

2013年1月19日土曜日

中国山水画をかいまみる


ある点を見つめていたら
そこに繋がる線が気になり
点が現れては線を追って 

この美術への興味もひきつづき落ち着くことなく、2013年を迎えました。

昨年12月に、泉屋博古館分館で開催されていた「中国絵画展」を見たことから、今年は、中国の山水画について知ることからはじめました。


水墨で描かれた絵を見ていて、気づけば目にし、気になるのが「瀟湘八景」や「瀟湘図」と題されているもの。しょうしょうはっけい、しょうしょうず・・。
その名の通り、「瀟湘(しょうしょう)」と呼ばれる中国のある場所を描いた絵です。
絵の中には山があり、水があり。風光明媚な地を描いていることくらいしか分からずですが、なんの知識もなくても、眺めているとひとりでに心がその中に入り込みます。
「瀟湘」と聞けば、なんとも言えない浮遊感が味わえるテーマだと勝手に思ってきました。

漁村夕照図 牧谿 根津美術館蔵(13世紀)

まず「瀟湘」という場所はどこなの?

瀟湘八景の位置

wikiによるとこんな感じでした。湖南省の北のほうに洞庭湖という有名な湖があり、いくつか川が流れ込んでいますが、瀟水(しょうすい)と湘江(しょうこう)という川が合流する長沙のあたりが元々名高い水郷地帯だったということで、そこらへんが「瀟湘」。

11世紀後半に長沙に赴任した宗迪(そうてき)という文人がおり、そこで八景図を描いたことから「瀟湘八景図」というのが始まったということでした。
というのも、瀟湘の地は古くから伝説や神話が生まれた場所として知られ、文学者や詩人たちによって歌にも詠まれ続けた名勝の地として有名なところだったので、宗迪はその場所を絵によって表現しようと試みたんだそうです。
その後13世紀半ばくらいまで「瀟湘八景図」というのは大変流行したそうです。

日本でも近江八景や金沢八景があるのは、この「瀟湘八景」からきているということで、中国だけでなく日本・韓国などでも流行ったのは、この形式が適度に詩的で、文学的であったからと言われてます。たしかに今私が好きなのも同様の理由だからですね。あんまりよく分からなくても理解でき、適度に教養的な響きがあるからだとおもわれます。

瀟湘八景と言われる8つの景はこのとおり。

洞庭秋月 (どうていしゅうげつ) 洞庭湖に浮かぶ秋の月
漁村夕照 (ぎょそんゆうしょう) 夕焼けに染まる漁村
遠浦帰帆 (えんぽきはん) 遠くに行き交う帆船
江天暮雪 (こうてんぼせつ) 降り積もる雪
山市晴嵐 (さんしせいらん) 山の市の賑わい
烟寺晩鐘 (えんじばんしょう) 寺の鐘が聞こえる夜
平沙落雁 (へいさらくがん) 砂原へ舞い降りてくる雁
瀟湘夜雨 (しょうしょうやう) 瀟湘の地に降る夜の雨

これを書いているだけも、訪れたことのない瀟湘の地をいい風景だなあと思ってしまいます。これらの句は宗迪ではなく後の人が付けたのだろうと考えられてますが、たった4字から生まれるイメージ! 詩と言葉を重んじてきた中国文化の一端がここからでも感じられます。

以前に見た池大雅の「洞庭秋月図」、通称「ピョロリのおじさん」と勝手に呼んでいる絵も瀟湘八景の一つを描いたものでした。おじさん呼ばわりしつつ、じつは「笛を吹く唐子」と解説にあったので、ぜんぜん子どもだったので後に驚いたのですが。

大雅の瀟湘図なんかだいぶゆったりしてましたが、時代や国や人によって描かれ方も色々あり、どの人のが好きだろうかとか、こんな絵もあるんだとおもしろいです。日本に八景図の断簡が伝わり有名なのが、牧谿(もっけい)、玉澗(ぎょくかん)で出光美術館にあったり、徳川美術館にあったりするようです。日本では狩野元信とか、雪村とか。「瀟湘八景図」は鎌倉時代にはすでに日本でも知られるようになっていたようです。以前に見た雪舟の山水長巻にも瀟湘八景のテーマが盛り込まれていたりと。それぞれにだいぶ雰囲気が違います。

  
狩野元信 東海庵蔵(15〜16世紀)   遠浦帰帆図 玉澗 徳川美術館蔵(13世紀)

そういえば信じられない感じで描かれていた朝鮮民画もあったわけだし、瀟湘八景を自分で描いてみるのもいいなあと。

山と水の描かれている自然を見ていると、ひとりでに心はその隠遁の世界に入りこんでしまう、そんな感覚になれる山水画が特に好きですが、「臥遊(がゆう)」という言葉があるそうです。

宗炳『画山水序』より(と思われます)

宗炳(そうへい)という人が、晩年老いと病で名山を訪れることが出来なくなったので、これまで行った地を絵に描き、絵に向かい自室でその境地に浸ったことから生まれた言葉。

ただ懐を澄まし、臥したままそこに遊ぶ。

という意味です。なんといい言葉!
この「臥遊」が、その後の中国の山水画観の基本的な理念となったということ。
トーハクに「瀟湘臥遊図巻」というのがあるらしいです。今このタイミングでちょうど見られるみたいですが、李さんという名字しか分からない人の絵のようです。
文人たちの集いに添えるために描かれた絵で、「瀟湘」というのが文人にとって特別な土地として語られ、「臥遊」の精神がキーポイントになっていることが分かる代表的なもの。

ということなどについてを、以下の本で知りました。


『花鳥・山水画を読み解く』宮崎法子 2003

カチっとした堅い本かなと思いながら読んでみて、たしかにカチっとした本でしたけど、中国の花鳥画、山水画への入門としてふさわしい、すごくしっかりした良い本でした。特に絵の主題に着目して、時代による描かれ方の変化やモチーフに込められた意味などの解説があり、まず垣間見てみるのにはちょうどよかったです。ひとまずこれを足がかりにさらに深い世界へ踏み込んでいければと思える本でした。
また、過去を懐かしむように知る、ということだけでなくて、このような中国の伝統を通じて、現在では過小評価されてしまった、かつて東アジアの文化圏の一員であった日本というものを再認識できれば、という著者の歴史観についての態度も合わせて垣間見えるようなところもあり。「はじめに」のところから考えさせられる部分がありました。
中国を摂取し、西洋を急速に摂取してきたので、一度シーソーをまっすぐに戻すような気持ちで見てみたら、ちょっとずつ見える物が変わってくるのかもしれないです。

そしてもう一冊読んでみている本。

『中国絵画のみかた』王 耀庭 1995

まだ読みきれてないですが、これも良い本だと思います。
上のよりもっと分かりやすく、中国絵画で大切にされている表現についてと、時代の流れで見ていく絵画史に大きく内容が分かれていました。こちらはほとんどカラーで図版もたくさん載ってます。みかたを教えてくれるので、構成は教科書的ですがやたら説明的にタンタンとした感じはなく、文章が良いのか、個人的に好みの本でした。

この二冊を続けて読めば、なーんとなくポイっと中国絵画に入っていけそうな気がしてます。

それにしても、いちばんとっかかりにくいのが人名! 検索するのにも漢字変換が難しくてたいへん。図書館で本を見てても、西洋のカタカナの名前の人のは沢山あっても、東洋の本は少なめ。そんなことすら今が西洋社会に傾いてるせいなのかとか、勝手になすりつけてみたり。

ともあれ、もっと中国絵画のことを知ってみてから、その影響下にあった日本の絵をまた見直してみれば、改めていろいろ感じられるかもしれないし、何が違って何が同じかとかも考えてみたいし。

今回書いたことですら、宮崎さんの本の5ページ分くらいに満たないちっぽけなことで、さすが中国何千年の歴史。ひとつ知ろうとすると深淵が見え怖じ気づいてしまう気持ちもあります。もっとあたまをまとめたいことがいっぱい。!