2013年4月19日金曜日

三井親和についての少し


桃は紅にして 復た宿雨を含み  ももはべににして またしゅくうをふくみ

柳は緑にして 更に春煙を帯ぶ  やなぎはみどりにして さらにしゅんえんをおぶ

花落ちて   家僮未だ掃わず  はなおちて かどういまだはらわず

鴬啼いて   山客猶お眠る   うぐいすないて さんきゃくなおねむる


桃の花は紅色に ゆうべ降った雨を含んで
柳の葉は緑色に 春のかすみを帯びている
庭先には花が散り落ちているけど 家の召使いはそのままにしていて
うぐいすが鳴いているけど わたしはまだ眠っている

そんな感じの内容の詩。想像するとなんとも気持ちよくて眠たくなります。
これは王維の『田園楽七首』という中にある詩でした。唯一わたしが知っている「春眠暁を覚えず」も、まさかの眠たくなる詩。そして季節は春、春の眠りはやっぱりいいよねと、しみじみします。

その詩が屏風になっているものが先日、東京国立博物館に出ていました。

 三井親和 唐詩屏風 18世紀

書いたのは江戸時代の三井親和(みつい・しんな)という人。
全然知らない人だったのですが、実物の書には一目みて人を惹きつけるような力強さがありました。すごく上手いというわけではないけど、ふしぎにずっと見てしまう。前を通る人がふと立ち止まり、屏風の向かいに構えられたソファに腰を下ろし、また次の人が訪れてはじっと座り、、そんな書と人の風景をしばらく眺めていました。

三井親和(元禄13年(1700)ー天明2年(1782))
深川に住んでいて、深川をとても愛していたということで、深川親和と名乗っていたそうです。当時の江戸では、
「どの祭りにも深川の親仁(おやじ)出る」
とかの川柳があったりしたほどで、親和の書いた神社や商家などの「のぼり」や「扁額」がそこら中に溢れていて、江戸を代表する書家だったということ。
また、親和が書いた筆跡を模様化して着物や帯にした親和染めというのもあったくらい、ブームになった人だったそうです。

まだ、上の屏風の書しか見てないですが、せっかくぐっときたので、忘れないよう親和についての本を読んでおきました。


『江戸に旋風 三井親和の書』小松 雅雄 2004

すぐに手に入る本で三井親和の名がついてるもの、というとこの本しか見つかりませんでした。親和と縁戚になる著者の方が、身内用に残そうと資料なりをまとめていたところ、せっかくだからと一般に出版されたという経緯の本でした。なので、親和についての文献、略譜、エピソードなどがまとまっていて、とても意味ある本だと思うのですが、なぜか誤字などの間違いが10カ所以上あるし、なんだか読みづらいし、、この本があったおかげ今回親和のことを知ることができたのに、本そのものとしては全体的にちょっともったいない感じの出来でした。


『森銑三著作集〈第4巻〉人物篇』 1971

徹底的に資料を通じてしか人物を語らなかったという森銑三さんの本。書家の人物ばかりがまとまっている著作集の4巻に「三井親和」が収録されていました。親和についてのページはあまり多くなく、ここに書かれてあることは大体小松さんの本にも引用がされていましたが、読んでみたかったので手にとりました。

親和はよく名前が知られた人だったにも関わらず、あまり伝えられている文献が少ないようです。その中には結構批判的なものもあったりして、あんまり字もうまくないし、書についての学があるわけでもないし、人に求められるままに多く書いたりしているだけで有名になっている、という厳しい内容とか。
特別に高尚な人物だったわけでもないけど、でも世に広く知れ渡っていたりして当たり前の存在になっていたりすると、逆に書き残しておこうとならなくて、資料などがあまり残されていないのかも?

森さんは本のなかで、「しかしその人は尊敬には値しなくても、一概に俗物として貶し去るのはいかがであらうか。右に紹介して来た諸家の記述を通して親和を見る時、私はその人に好感を持つ。」と言われていました。
残っている親和の逸話からは、勤勉だったとか、倹約家だったとか、居候の面倒をいっぱいみてたとか、親しみやすそうな人物像が浮かび上がったりして、そういう人だったからこそ当時の江戸っ子にモテたんじゃないか、と森さんの本にもありました。
この本には、親和の師である「細井広沢」の項もあり、こちらはかなりボリュームがあるものでした。

先日東京国立博物館に訪れたときは、ほかにもまさに達筆なものや、すぐれた書跡など色々みたのですが、このときはいちばん真っすぐで実直な感じで、書は人を表すんだな、というのまさに書の基本のような親和の文字が、一番すっと入ってきたのでした。

それから単純にでかい文字、というのはそれだけでもかなりインパクトがありますね。だからぐっときたというのはあると思います。あと、漢字知っててよかったーと、書を見ると心から思います。
「大きい字」については何となく気になるので、また今度考えてみようと思います。

なんで大に点がついたら犬なんだろう

2013年4月7日日曜日

感想 「飛騨の円空展」いってきました


東京国立博物館での円空展。

謎につつまれた生涯。そんなミステリアスなところがまた人を惹きつける円空氏。
後にも先にも見られない造形の仏像を残したこと、「えんくう」という名の響きの格好よさも相まって、異質な存在感が際立つ人物。

くわしい経歴もよく分かっていないそうですが、残っている文献の一つとしてよく出てくる『近世畸人伝』を読んでみると、岐阜・千光寺の俊乗(しゅんじょう)さんという、なんだか天然だけど無我な心を持つ和尚さんと仲良くしていた、というちょっとほのぼのエピソードもあったり。その千光寺には、数ある円空仏のなかでも屈指の名作が残っているそうで、今回は千光寺所蔵の円空仏を中心に、岐阜県高山市所在のものをあわせ合計100体もの仏さまがはるばるお集りになっているという展覧会でした。

円空というと、こういう
笑っていて、木をそのままに使った荒削りのイメージ。

円空もさすがに最初からそういうタイプのものを彫っていたわけではなかったようで、北海道、東北、関東と修行の旅を経ていくなかで作風にも変遷があり、後期になるにつれこういうよく知られている円空仏が生み出されていったという。

「円空」という名前をはじめにどこで知ったのかもう覚えていませんが、一度見るとやっぱり忘れることはできないインパクトがあります。円空が広く知られていったのは昭和30年代。テレビドラマまで作られたりして、その頃第一次円空ブームが起こったそうです。その後も継続的に円空ブームが続き、さまざまな本も出版され、展覧会もふえ。さらに2006年には梅原猛さんというビッグネームによる調査・考察がなされた『歓喜する円空』の出版によって、また一段階ステージアップして円空が再評価されることになったのだと思いますが、そんなこんなが過ぎ去って完全に乗り遅れた今、やっと円空をしっかり知る機会が訪れました。

円空展のパンフレット

木に宿るものを仏のかたちで彫り出した、その神仏習合感が日本人だからなのかとてもしっくり心地よく響いてくるものがありました。
カッコいいなー、この形、のみの跡、ワオ、でもそれだけでなく深い深い祈りの思いが凝縮されていて、芸術的にみようとする時も、祈りの対象とみようとする時も、円空が修行の末に達した“超越した何か”にすこしだけ触れられるような気がしました。

円空というおじさんはどんな人だったのか、順番に本を読んだりしているなか、円空仏よりも気になるものがありました。

『大般若経』見返し絵 片田本 211巻の一部と251巻

『大般若経』見返し絵 片田本 211巻の一部と251巻

こ、これは何。と衝撃を受けたのは、円空が残した絵でした。

ときは寛文13年(1673)になる頃。円空さんは、奈良の大峯山に入り、決死の冬籠りを行った頃に修行の頂点を迎えたといわれてます。修行を終えた後、それまで作ってきた仏像とはまったく異なる、木肌がむき出しで荒削りの像をつくったそうです。
翌年春、円空の足取りは三重県・志摩町片田と北へ少し行った立神薬師堂で発見されています。というのは、そこでそれぞれの地に伝わる『大般若経』の修復作業を行っていて、その際に同教の守護神といわれる「十六善神図」を添絵として描き残しているのです。現在残っているのが、片田本で54枚、立神本で130枚。それが上の画像のもの。

円空の現存している絵として知られているのはこの片田と立神のものとあと数点しかないそうです。円空研究で知られる長谷川公茂さんや梅原猛さんによると、この仏画が徐々に簡略化されているところに注目し、この絵を描いた以降に芸術的な円空仏が生まれていることを考えれば、見返し絵で省略の技法を学んだのではないか、とここを円空の芸術の変革期とし、彫刻への影響を指摘されていました。

仏さまそれぞれが丁寧に描かれているものもあれば、くるくるーと素早く簡潔に描かれているものもあり、たしかにその後の円空仏と似ている素朴な風貌をした仏さまがたくさん見られます。円空仏の変革のきっかけと考えられていることも面白いですが、やっぱりその絵の素朴感にはかなり惹かれてしまいます。

時々こういうゆるい素朴が、ぼつぼつとどこからともなく日本の歴史の中にわき出してくるのがふしぎです。「三十三観音立像」は何となくはにわのあの感じを思い出したり、妙なゆるさがとてもすきです。

どうしても見返し絵の全貌を見てみたいと思い、図書館などで円空関連の本を開いてみたのですが、全然見つけられませんでした。どこかにたくさん掲載されている本などはあるのでしょうか。いまのところ梅原猛さんの『歓喜する円空』に紹介されている数より多く見ることができた本はありませんでした。絵本にでもしてくれたら間違いなく買うのに、と悔しくおもっています。



『歓喜する円空』梅原猛 2006

円空を知るにはやっぱりこの本からなのかな、と一度手に取ってしまうとあ、違ったかも!と思ってしまう本でした。梅原さんの名前が大きいのでやはりこれをまず読んでみたくなったのですが、内容がかなり濃いでした。これまでの円空研究史や円空の作風、人物などの深い考察になっているので、ここから入ってしまっていきなり重かったです。
2006年の時点でも「今でもアカデミズムにおける研究の対象にはなっていない。」という円空。これまでずっと民間主体で円空研究が行われてきたことによるのか、中にはあることないこと書いたりした方もいたそうで、それに対する梅原さんの批判など読むにつれ、円空研究が抱えていた問題についても知らざるを得なくなり、はじめに読んでしまって大変だと感じてしまいました。それでもやっぱり本自体は、梅原さんの凄みがあり、ここを通らないわけにはいかないというものでした。

『円空仏 』長谷川公茂 1982

保育社の文庫カラーブックスシリーズ。円空学会の理事長でもあり、民間の円空研究者のなかの代表的な方。梅原さんは長谷川さんの案内で円空仏を巡っていたり、長谷川さんの最近の『円空 微笑みの謎』に寄稿されていたりもしてました。
写真が大半の本でしたが、長谷川さんが円空研究のなかで大切にされている仏像以外の部分、円空が大量に残している和歌からみる円空思想の考察についても少し収められていました。
今回円空を語る本を色々手にとってみましたが、思い入れが強いからこそなのか、円空の生涯が謎に包まれている分、ときどき独自に空白を埋めるような考えや主張があったりするなかで、長谷川さんの著書には熱い思いと一緒に、控えめな感じがするのもまた印象的でした。


『円空を旅する』冨野治彦 2005

たぶん写真をみながら、円空の全貌が分かりやすく読めるのは長谷川さんの『円空 微笑みの謎』かなと思いましたが、コラム的に円空の生涯と大事なポイントを一通り分かるにはこの本が一番読みやすかったです。文章は、産経新聞大阪の記者さんが取材して新聞に連載されていたものでした。梅原さん長谷川さんはじめ、お寺の方や円空研究で知られている方々に取材を行いながら円空の足跡をたどっていて、円空についての大切なことはもれなくまとまっている感じがするのでよい本でした。

研究史においても主流としてなかなか扱われてこなかったところや、既成のことに捉われないところ、同じくらいの時代に生きていたことなど、先日行った白隠との共通点を感じた円空でした。

「円空の作った素朴な仏は、それまであたりまえのものとして江戸時代の人の祈りの対象としてあったもの。「美術」という観念が後に日本に確立されてはじめて、あらためて円空仏などが発見しがいのある先鋭な存在へと変貌したのではないか、
かつて日本のものさしだった中国や西洋の価値観から外されてきたものにこそ、日本独自のオリジナリティがあるのでは、」
そんなようなことが、白隠の時に読んだ矢島新さんの著書にあり、なるほどとおもいました。

いろいろと考えたりした円空についてでしたが、円空は、庶民でも仏教を知らない人でもどんな人でも救われる、とずっと仏を彫り続けていたわけなので、そんな難しいことも一瞬で吹き飛ばしてしまうパワーがあります。そうしてみんな円空にのめり込んでしまうんだと思いますが。

円空に関して読んでみたなか、結局いちばんしっくりきたのは、美術手帖2月号のみうらじゅん氏による文章。。


『美術手帖 2013年2月号』

みうらさんは、仏さまのことを「仏(ぶつ)」と呼んでいる時点で尊敬していますが、その独特の仏像感覚がすごいです。最近やっと仏像に対して興味が増してきたところ、改めてみうらさん・いとうせいこうさんの『見仏記』を読むと、誰も仏像に対してそんなことを大声で言ってきてないことを、すがすがしく表現しているその感じ、その視点、みうらさんていいなとおもっているところです。真面目に語る人を巡りながら、結局みうらじゅんに戻ってきたことで最後はなんだか自分にほっとしたのでした。