2012年5月22日火曜日

古典なう


國學院大学伝統文化リサーチセンター資料館、という長い名前のところへいってきました。
渋谷の國學院大学の敷地内にありますが、ここは大学の研究活動の成果を広く公表するという目的で2008年に開館した施設だそうで、古代の祭祀、神社の祭礼にまつわる様々な資料が常設展示されていて、一般にも無料で公開されています。

土器や埴輪など、はるかむかしの遺跡からの出土品をゆっくりと眺めることのできる、私にとっての都会のオアシスであります。

おひさしぶりです、ハロー!

どう考えてもハローと答えてくれている埴輪に心やすらぎます。

いやはや・・
とこの方は言っているでしょうか。遠い目をした表情が何ともいえません。

今回は「物語絵巻の世界」という企画展が行われていたのでそれを見てきました。


古くから物語文学が発展してきた日本では、それとともに物語が絵画化され広く伝搬してきた文化がありますが、物語と絵の関係はどのようなものであったか、國學院大學の所蔵する「伊勢物語絵巻」と「竹取物語絵巻」を中心に、時代や媒体による構図などの違いを見るという内容でした。

こうやって展示されている絵巻や絵入り本を見るときには、やっぱり絵のことばかり気になりがちです。きれいだなー、すてきだなー、なんか変な絵はないかなーと探してみたり、工芸品としての絵巻、絵画表現としての絵というふうに見てしまって、テキストのことは頭からほとんどほっぽらかしたままでした。

それはそれで時には良いのですが、古典文学の教養も含め、もっと歴史的な面からもちゃんと理解したい! と・・ ただ遠くから眺め憧れるだけでは、自分のなかで死んだ文化になってしまうなあと。今回思ったことはそのことでした。

「伊勢物語」を解釈するために、室町時代からは数多くの注釈書が作られたそうです。その時代でも注釈がないと理解できない古典として「伊勢物語」が存在していたこと自体、そもそもピンときてないことでしたが、物語が絵画化され流布していくにあたっても、その注釈書が影響を与えたということでした。

竹取物語絵の比較の方では、武田祐吉氏旧蔵本と、ドナルド・ハイド氏の旧蔵本なるものが並べられていましたが、同じような場面でも細かい表現や構図も少しずつ違っています。また、別の小型絵巻ではその形の都合上、本文が改訂されている箇所があったりと、比較して見比べることで元の物語の展開の仕方がそれぞれで違うことが分かりました。

さらに江戸時代になると、大名や豪商が娘の嫁入り道具としてこのような物語を絵巻物として絵双紙屋に作らせるという文化活動が活発になっていったそうです。
出版の形が確立されていくそのような時代のなかで、だんだんと本文も固定化されていったりしたそうですが、絵が必ずしもことばに忠実でなかったり、解釈の違いが絵の違いに表れて見えることはおもしろい見所でした。

古典と呼ばれるものは、今でも舞台やオペラやバレエや映画や様々な形で、何度も何度も再解釈され生き続けているように、あらゆる解釈に耐えうる普遍的な物語が作り上げられたことがまずはもの凄いことだと感じさせられます。そして誰かの見方による解釈の違いと、その再解釈の積み重ねがその物語をさらに強くしていったのだと思うと、解釈を作り上げることは作品と同じくらい価値を持つ物だと思いました。

そしてそれを今の時代から見る/読む/聴くという行為自体が、再解釈や再編集を積み重ねることの一部でもあると思うので、過ぎ去りし文化を遠目で見るのではなくて、時代をくぐりぬけてきた素晴らしさをもっと近い距離で改めて生きたものとして感じたい。そのためにはもっといろんなことを知り理解したい。しかしなんだか足りないことが多すぎる、妙な教養コンプレックスになったようです。


この人が日本に生きていたころから今までの間に、いろんなできごとがあったんだなあ。今日は金環日食がありました。ただ今生きていることが歴史になっていくふしぎ。


0 件のコメント:

コメントを投稿