2011年11月5日土曜日

『美の終焉』水尾比呂志

古本屋さんで題名にひかれて購入しました。

『美の終焉』水尾比呂志 (1967)

読み進めていくと民藝の話が思いがけず出てきたので、なんだろうと思ったら、この本の著者水尾さんは、柳宗悦に師事した美術史の研究者で、現在は日本民藝協会の名誉会長でもあり、日本民藝館の理事でもある方だそうで、最近めっきり民藝のことを読んだりすることが多い。

この本が刊行されたのが、昭和42年なので、水尾さんが37歳くらいのころになるのかな。悲観的なタイトルからも想像つくように、この本に収められている論文は、現代から「美」が失われていっているんでないか、という水尾氏の嘆きが出発点となって書かれているものが集められている。大きく3つのパートにわかれていたので、それぞれで気になったところのまとめ。

第1部 美について

美しさとは何か?美が分かるとはどういうことか?美術品とは何を指すのか? ・・・。失われゆく美の話に入る前に、第1部では水尾氏の考える「美」の性質について述べられている。そもそも美術史家の人が、このような美学を論じたり、現代美術を評論したりすることが当時あまり無かったということがあとがきに書かれていた。むしろ、あまり関与しないような慣しがあったのだそう。水尾氏はそういう態度を疑問視し、美術史の研究をする上で「美」がどういう性状のものであるかという課題に立ち向かわねば、研究自体も結局意味が無いのではないかと感じて、第1部にまとめられているような「美」に対する文章を書き重ねてきたということ。
たしかに淡々と事実を語られるだけの美術史はつまらないし、よくもわるくも美術史の人や研究者の人たちの美の捉え方をはっきり言ってくれたほうがおもしろいなと思う。そうじゃないと、美術そのものが見出されていかないだろうし、それによってまた別の視点や見方も生またりするんだろう。
水尾氏は、柳宗悦による民藝思想を受け継いでいるので、美観と言うのか、美の捉え方もまたその思想に裏打ちされている。醜いものに対して美が存在する世界ではなく、自然においては全てがあるがままに美しい。その美観を前提として、たとえば現代の人たちが美を分かる力が無くなっていると感じるなら、「自然美」に立ち返ればいいと言っている。花には醜いものはなく、また花の美しさを否定する人もいない。花に対する予備知識が無くても、瞬時にわたしたちは花の美しさのすべてを理解することができる。美術品の鑑賞態度についても、私たちはつい知識に頼って判断したり、心構えをしがちであるために、知識にベールをかけられてしまい美が分からなくなっている。分かることは「知る」ことではない。「見て」のち「知る」ことを深めてこそ、分かるという境地が開ける、と指摘している。

第2部 美の終焉

水尾氏は、「美」が終わりを迎えつつあるのは近代以降の精神風土の変化によるものだと考えている。近代美術においては、人間の能力が「美」を生み出す最大の要件とされ、一部の天才と呼ばれる人たちの才能や、個性が賛美されてきた。そうして人間性に重きをおいてつくられた美は、醜の対立概念としての美にとどまるので、「自然美」の超越性まで達する事ができなくなる。たとえば原始の美、宗教造型の美、民藝の美などに見られるような、「美」とは性質が違っている。
つまり民藝思想では、美醜の二元論を超越し、個性や自我が排除されたところに「自然美」が宿ると考えているので、自我の目覚めた近代以降の美術の性質には、「自然美」の生まれる隙がないということを言っている。また工芸の分野に関しても、工芸がしだいに作り手の自我や美意識を表現する手段として用いられるようになった頃から工芸美が衰退していってしまったと嘆いている。
近代化以降、滅んでいく手工芸品にかわって登場してきた「機械製品」についても水尾氏は述べている。それらは、機能的な美とか現代の美という言葉であらされることがあるが、ほんとうに美と呼んでいいものなのかと改めて問い、それは「能」という言葉に近い表現で表されるべきでないかと提唱している。
「美」という概念は、本来自然の造化による創造物の性質を表すもの。なので「美」と呼ぶ場合そこに自然性が含まれることになるが、機械は自然を断絶するものである。自然をコントロールし征服する機能を進歩させ、出来上がった機械製品の性質は自然の持つ不完全性を取り去った、均一性と完璧性を持っている。完璧性は美に似た印象を与える場合があるが、それは美と呼ぶべきものではなく、機械の命である機能という概念を発展させた「能」と呼べる性質のものであると結論づけている。

第3部 新しい価値

失われていく「美」を嘆きつつも、水尾氏は美を回復させよう、とかいうことを主張しているのではなかった。人類は機械文明に移行していかざるを得ないので、今後は「能」を正しい姿で発展させていくために、機械をいかに統制し活用するかが重要。その文明が直接的に広く民衆と接する場所は、生活の場における工芸であるので、新しい文明では、民衆の全てが享受しえる民衆工芸の時代であるべきとし、それを「新民衆工芸文化」と名付けている。「新民衆工芸文化」... この第3部については、なんとなく分かるようで、分からない、もやもやした気持ちになりながら読んだ。これまでの民芸の分野も守りつつ、機械製品の「能」の価値を高めていく工芸文化。機械化そのものを目的に「能」を乱用していくのではなく、用の美、ならぬ用の能、みたいに正しく人間に奉仕するモノとして発展させていかねばならないということ。

納得いくようですっきりしないところもありつつ、いろいろ考えをめぐらせながら読み終わった。でも、タイトル通り、美は終わりを迎えたと言い切っているところはおもしろかった。一人の人間が生まれて死んでいくように、美は死んでしまったのかな。美が、というよりも美を生み出す土台となっていた自然文明が終わってしまったということか。
民藝の美の話を読んでいると、人間にも同じ事があてはまるなとよく思う。人にもモノにも、自我とか表面的な装飾でかざられた美とかを越えたところに共通する健やかな美しさというのがあるんだろうなあ。



健やかな動物の瞳。

2 件のコメント:

  1. 民藝については詳しくないけど、すごく
    興味深い本やわ・・

    自然から生まれたものの美しさは
    他に変えがたい価値があるよね。
    そういう自然美を感じるこころ、
    忘れてないようにしないと・・と日曜美術館を
    見ながらこのブログを読んでいる今。

    返信削除
  2. 日本人だからか何なのか、やっぱりふとした自然にうっとりしてしまうよね。

    日曜美術館まだ見てないわ~ 今週は何だったけ。

    返信削除