2012年10月21日日曜日

感想 「機械の眼 カメラとレンズ」いってきました


最近になってやっと写真のおもしろさに興味を持つことができました。というのも「写真」が当たり前のものすぎて、今までなんにも考えてこなかったからです。
もっと写真を積極的に見よう。
ということで、東京都写真美術館のコレクション展「機械の眼 カメラとレンズ」を見に行ってきました。

展覧会は、国内外の名だたる写真家たちの作品が160点ほど展示されていました。見たことあるような有名なものもあり、一気に色んなタイプの写真を見られたので初心者としても楽しめる展覧会でした。

写真を見ることで考えさせられる、人の眼とは違う“カメラのものの見方”。展覧会では、写真初期のころから現代のものまでが見られることで、機械自体の進歩や技術の発展によって、急速に在り方が変わっていく写真について、また「フォーカス」「レンズ」「露光」「ブレ」「人工光」などの特性で括られた構成によって、いろいろな側面から写真を考えることができ、考えれば考えるほど写真はふしぎでおもしろいと思いました。


そのように、様々なことを考えさせられる写真という存在。
だからこそ、今わたしは写真の罠にはまっています。
ここからは展覧会自体の感想ではなくて、写真についてはじめて感じたこと、ひっかかったことを書き残して、これから先写真について探求するときのための足がかりにしようと思います。


「写真」とひとことで言っても、決して一括りにはできない。考えようとすると色んな見方がでてきます。考えられる視点の可能性がたくさん内包されているように思えます。
写真は何を隠し持っているんでしょうか。

それは展覧会のタイトルでもある「機械の眼」としての写真。
カメラという機械で写し出された「現実」は、わたしたちの眼とは違う視覚的特徴を持っているからこそ、括弧で括りたくなる「現実」がそこにあるようです。写真作品を見ていると、いま見ている世界に対してのふしぎが一気に湧き出てくる感じに陥りました。その写真に刻まれた像と今見ている世界とのブレが大きければ大きいほど、よりカメラの眼を意識せざるを得ません。人が主観的にシーンを選びシャッターを押しても、写し出されたものは、無意識なものまで全て意識化させるような「機会の眼」が介在するので、やはり別の「現実」になるような気がします。
何千分の1秒の瞬間の「現実」。肉眼では決して見られない「現実」。目の前の現実とまったく同じに見える「現実」。
考えもしない視点をもたらしてくれる「機会の眼」の存在があります。


それは広範囲な役割を持ち合わせている存在としての写真。
見渡せばどこにでも溢れている写真を思うと、写真の発明ってすごい事なんだなあと再認識しました。
真っ暗な部屋にポツンと外に通じる穴が開いていたら、そこから入ってくる光は反対側の壁に倒立した外界の像を写し出す。という光の原理。
ただただ不思議なその現象を、カメラ・オブスクラという装置にし、投影された画像を定着させるために試行錯誤が繰り返され、カメラの技術が生み出されていったということですが、急速に発展を遂げたカメラは、今やだれもの手にある状態。
そして写真の役割は、肖像、芸術、記録、報道、商業写真、、とカメラが手軽なものになるにつれどんどんと広がり、見渡せばイメージはどこにも溢れている今。
写真は芸術か否か、など議論されていた時代はもうすでに終わってしまった感じです。担っている役割はさまざまで、さらにデジタル化された写真にまでなると、写真は単純に一括りにできないです。こちらも何がなんだかです。意識するまでは単なる1枚のpictureに過ぎないけれど、こちらが何かを考えはじめれば、いろんな役目を果たしてくれる存在。


それは個人の拡張現実のような世界をもつ写真。
絵を見ていると、画家は山を下から登りながら描きたい真理にアプローチしているような感じがするのに対して、写真家は写真に写し出されているはずの真理の解釈と格闘しているような感じがしました。そして手に持つのは融通のきかない「機械の眼」。となると、写真家の人たちはそれぞれ何を考えながら写真をとっているんだろうか。写真について語られる言葉にも興味をそそられていきます。

「言わしむればーーーとにかくうつそうと思った時、うつした方が一番良いと言うことになるようだ。理くつでうつしたのでは第一に芸術に反する。理論はその中に含まれたもので、含ますものでないとなると芸術写真のうつし方てな本は既に命題から間違っていはしないか?」 木村伊兵衛『僕とライカ』

はじめから真理を意図して内包させたようなもの。確かにそういう創作物に、心の底から感動することは無いように思います。心を動かされるような体験は、そう簡単に因数分解して作り上げられるものではないっぽいです。以前ロベール・ドアノーの言葉を探した時に、「目覚まし時計を解体すれば、時間が分からなくようなものだ」とありましたが、その感覚にも近い言葉です。“全体は部分の総和ではない”というなんだかゲシュタルト心理学的な感じの話でもあります。

うつそうと思った時の写真。「機械の眼」といってもそこにそれぞれの写真家の主体的な感覚が加わることで、とても個人的な世界がそこに出来上がるように感じられます。機械の眼に個人が付与され写し出された写真は、個人によって何かが増大したような「現実」。それは、その人の思考や世界の拡張現実的な存在にも思えます。


という感じでつらつら考えていると、今まさに私は解体するように写真を見ている感じがして、どうも罠にはまった気がするのです。。
それでも「機械の眼」というタイトルは、とても考え深いことばです。いろいろ考えるのに飽きないキーワードでした。そしてどうもこのことを考えていると、神林長平さんの小説が思い出されます。雪風三部作目のようにすべてが意識化された世界に入り込んでしまいそうになります。

これから少しずつ写真についての本も読んでみたいですが、とりあえずこの機会に手に取ってみた本。


『写真、「芸術」との界面に』光田由里 2006

著者の方は松濤美術館の学芸員をされているらしく、野島康三の展覧会の担当がきっかけで写真史の研究に入ったというようなことで、美術史からの視点も含まれているようなところもおもしろい本でありました。福田伸三、野島康三、村山知義、中平卓馬などの人物にフォーカスしつつ、1910年代〜70年代までの日本の写真史も何となくわかるような本でした。


カメラの特性を色々見られた展覧会でしたが、なかでもすきだったのは「長時間露光」のゾーンでした。肉眼では見えない光景、静止しているのに時間が含まれている世界。なんとも不思議な気持ちになりました。


いつか何かを撮った時の写真。



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