しゅら しゅしゅしゅ。
その昔、インドにはワニの姿をした神様クンピーラがいました。
神様たちの世界は複雑で、クンピーラが仏教の世界にあらわれると宮毘羅(くびら)大将、別名・金毘羅(こんぴら)さまと呼ばれます。
香川県、今の「こんぴらさん」がある山は元々松尾山と呼ばれる山で、お釈迦さまをご本尊とする松尾寺というお寺がありました。金毘羅さまはお釈迦様が修行したというヒフラ山の守護者だったので、そんなご縁もあり一緒におまつりされることに。
金毘羅さまは海や水に関わるお方、松尾山は瀬戸内の海に出る舟人たちの目印にもなる場所なので、航海の神としての存在が増すようになり・・土地の神様方とも習合しながら金毘羅さまの力はだんだんと大きくなり、ついに「金毘羅大権現」と呼ばれ崇められるように。
もともと金毘羅さまの守っていたヒフラ山というのは「象の頭」を意味する言葉。ということで、松尾山がいまでは象頭山(ぞうずさん)と呼ばれることになったのだとも。
しかしながら人間も勝手なもので、明治時代になると神仏分離を行ったので、仏さまが仮の姿として神さまの形になっている「権現」というもの自体が禁止に。そして松尾寺は廃寺になり、いまの金刀比羅宮と改められる。。
正確には違っているかもですが、というのが「こんぴらさん」についてかいつまんで分かったこと。すごいです人の考えることは。神様たちはなんのこっちゃ分からなかったんじゃないでしょうか。
そんな通称「こんぴらさん」へ大人になってはじめて行きました。
奥社までは行きませんでしたが、本宮までの785段の石段を登りました。
しんどいけれどなぜか楽しくそして清々しく、お参りのために登っていくという行為がしっくり来ました。下りながら参拝に行くのはいやだしなあ。上と下、天と地。やっぱり何かに登りたいんですね人間。
かっこいい。こまいぬがわんさか。
かれこれ昔の時代から、この道をどんな人たちが何を思って登っていたのかしら。江戸時代には金毘羅参りはお伊勢参りと同じくらい大流行になっていたというし。ふもとにあった琴平町立歴史民俗資料館という人っ子ひとりいない場所で、かつて賑わっていた門前町のミニチュアが見られました。
しかし今回の一番の目的は、金刀比羅宮の中の表書院を飾っている円山応挙の障壁画を見てみたかったのです。神仏分離以前は「金光院松尾寺」であったこんぴらさん。応挙に絵をお願いしたのは、お寺を統率していた代々の金光院さんの中の宥存(ゆうぞん)さんという人。応挙の前には、若冲にもお願いして奥書院のほうに絵を描いてもらったということで、他にも金光院のお歴々は文化に造形の深い人物が多く、芸術家への支援や書画の収集などもおこなっていたそう。
「鶴の間」から始まる6つの間を見られる表書院は、残念ながら部屋の中からの鑑賞が出来なかったので、各部屋を覗き魔のように外からじーっと眺めるしかありませんでした。応挙のことについてはまた別でちゃんと考えたいですが、最後の「富士の間」の富士山のすそがずーっと襖を続いて行く邨田丹陵の絵がとても良かった。これは明治35年に描かれたんだそうです。
しぶいお庭でした。表書院は金光院さんが客殿として使用するために1658〜1660年頃に建てられた建築物。格の高い訪問客をもてなす部屋、従者を待たせておく部屋など、各間の用途に沿った画題があり全体の連続性があり、それでもって金光院さんの権威を示すように巧みに計算され描かれている障壁画。「デザイン」という言葉に直接対応する日本語が無かったというのを以前知りましたが、すでに隅から隅まで計算しつくす空間デザインの考えがあったからこそ、あえて言葉が必要なかったのではと思わされました。
小さい子が一生懸命「おーい、おーい」と呼びかけてやっと頭をあげてくれた白いお馬は、神さまが乗られる神馬(しんめ)。やほー!
お参りをした後は、登ってきた階段コースとは別の裏参道コースで下山しました。階段の賑やかな参道とは違って、裏道は山の木々の中を抜けて行くルート。紅葉の綺麗なシーズンなのになぜか人が全然居ない。「こちらへお進みください」と立て看板を掛けてきたくなったほど、ほれぼれするような色の世界がありました。
抽象的な概念がいろいろあるなかでも「神聖」というのはいったい何なんだろう。
疲れたらほっと一息。
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