2012年11月23日金曜日

感想 「古道具、その行き先」展 いってきました


松涛美術館での「古道具、その行き先-坂田和實の40年-」展。
目白で古道具店を営む坂田和實さんがこれまで関わってきた骨董、古美術、古道具。数々の物達とその独自の「古道具」の世界を紹介するという展覧会。すごく良かったので、場所が近いこともあり、二度も足を運んでしまいました。

ほこ、ほんわ、、
松濤美術館の建物と古道具達が絶妙にあわさっていて、そこに居るだけで落ち着くというか、なんならそのままひと眠りしたくなるような居心地の良さ。2階の深々したソファにどさっと座り、場所と物によって作られる調和のなかで心地よい時間を過ごしました。感じたことをあまり言葉で表現してしまいたくないような、静かであったかい展覧会でした。

カーブのすてきな建物。設計は白井晟一さん。

坂田和實さんの古道具を見ていると、やっぱり柳宗悦さんからの流れを外しては考えらません。柳さんの物を見つめる眼と態度、生活の中で使われるものに見出した美。しかし展示されている物達を見ていると、坂田さんの眼はもう少し違うところにあるのが分かりました。アフリカの部族の家のドア、皿の破片、錆びた鋏、魚焼き網など本来の目的ではもう使う事ができないほど朽ちているような物、石像、古いキリスト像などいつかどこかの場所で使われてきた祈りにまつわる物・・・。
柳さんは「用の美」を唱えてきたけれど、坂田さんの物は「用」の役割を終え、寿命の終盤にさしかかった「用」たちの行く末。それを例えば「無用の美」と呼ぶのは何となく違う気もしていて。人の生活の中で思う存分愛着され使われてきた物の最後の姿を見ていると、さとりの境地のような、美を超越しているところにある物だと思えました。

そうして言葉にしていくと、だんだん堅苦しく小難しくなってしまうけれど、民藝館を訪れて思う事や、今回の展示品を見て思った事にもどこか一緒の部分があって、なんというか「おじいちゃんみたい」・・
時代のうねりの中を生き抜き月日が過ぎて、年を重ねていったおじいちゃん。無理したり、取り繕ったり、ひけらかしたりしない、そんな人に似ている感じがしました。

普段の生活の中では見捨てられているような物達。
見捨てられるどころか、誰も気にとめていない、見られる眼すら持たれていない物達。

今見ヨ イツ見ルモ 

という柳宗悦の言葉をよく思い出すようにしていますが、今回、すこし意外な坂田さんの目線を目の当たりにし、また新しいものを発見したことで、“見るものはここからここまで”と自分のなかでまだまだ制限をつけているのでは、とちょっぴり反省の気持ちでした。

チョイスする、という行為は、それだけで人に何か考えさせ、モノの価値を一度ニュートラルにすることが出来る。という点では、「撮る」行為であらゆる物事の意味を均一にする写真にも似て、カメラのことを同時に考えた展覧会でもありました。ただし、チョイスするということで新たな創造を生み出すには、選び抜いているモノが何なのか、自分の眼とずっと対峙し続けなければいけないんだろうなと思います。
既成の考えを壊す、という意味では写真だけに限らず現代のアートの性質もそうであり、当初は坂田さんの選んだ物を現代美術と組み合わせて展覧するという案もあったと図録に書かれていました。今回は「結局は受け取り手側の心の問題」とする坂田さんの思想に沿い、受け取り手としての坂田さんの仕事をあらたに見る機会をめざすことになったということ。

だからといって、展覧会自体は何か考えることを強制させるために構成されているわけでもなく、各々が自由気ままに考えたり、考えなかったりできる心地よさがありました。押し付けがましくされない、見ている物を越えて色んなことに思いを巡らせることのできる素晴らしい展覧会でした。



展覧会の図録。写真はホンマタカシさん、デザインは有山達也さん。目で実際に見た時とはまた違う感じを与えてくれる、こちらもほこ、ほんわ、、の素敵なカタログ。

古道具達を見ていると、先日の「お伽草子展」で見た『付喪神絵巻』のことを思い出しました。


道ばたに捨てられた古道具達が人間に復讐しようとするお話。
大切に見つけてもらった坂田さんのところの物達はこんな悪い事しそうにないです。


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