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2012年3月31日土曜日

The Singularity is near.


ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき
レイ・カーツワイル

有名な人の有名な本だったらしいですが、全然知らずたまたま読んでみました。Amazon.com 2005年ベスト・サイエンスブック、日本では2007年に出版された本です。

科学の話に限らず専門的な内容の本は、テーマに興味があってもこちらの理解度が足りずやっぱり読めなかった、ということがありがちな中、この本は読みやすく一気に終わりました。分からなかったらすぐやめようと決めた上で読みましたが、面白すぎてサイエンス音痴な私でも全体の内容は理解できました。600頁とやたら分厚いので、科学用語の飛び出る細かい話ばかりかと思ったら、何度も著者の言いたいことが繰り返されているだけという分かりやすさもあり、分子とか量子とか細かいことが分からなくても読み進められます。

まあ読み始めたらビックリすることばかり。テクノロジーの進歩は日々少しずつ進んでいると勘違いしている間に、技術は加速するように発展していっており、ある時人間の生活が後戻りできないほど変容してしまう未来がくると言われました。それがレイ・カーツワイルの言う「特異点(The Singularity)」。

例えば、2020年代あたりには人間の知能と区別がつかないほどの超インテリジェントマシンが登場する。そのような機械の能力が発達すればさらに人間が追いつけないほどの知能の爆発が起こる。しかしその頃には人間が機械の知能と融合できるようなテクノロジーが生まれている。

倍々ゲームのようにあっという間にテクノロジーの進化は進み、これまでの生物としての人間の限界を超える時がやってくる。 というその時が特異点です。


もしやわたし・・・騙されてる⁈

この未来の予測がどれだけ当たっているものか、特異点論者に対してどれだけ批判があるのか分かりません。けれどきっと訪れるであろう科学の進歩の可能性を垣間見て、人間という存在について色んな考えをめぐらせることのできる、私にとっては哲学的な本でありました。

これまでの人間倫理や道徳からすると首をかしげそうになる予測についても、レイ・カーツワイルの論調は結構明るくて、人間というものをかなり柔軟な存在でありうるとする捉え方も面白い点でした。

ヴァーチャルリアリティで好きな体になり変われるバージョン3.0の人体、ナノテクノロジーの利用によって体の細胞単位から死を遠ざける技術、機械のような非生物的な知能を取り込んだり、 他人の感情反応を体験することができたり・・・

テクノロジーの進歩、人工知能の台頭、感覚的に考えれば不安や疑問を巻き起こすことでも、下に引用したような文章を読むとやたら騒ぎ立てることでもないように思えてくる。

人類は・・・すでに生物的な限界を超えつつある。技術によって改良された人間はもはや人間でないとするなら、その境界線はどこに引けばよいのだろう? 人工心臓をつけた人間は、まだ人間だろうか? 神経を移植された人は・・? それが二カ所になったら・・?  脳に10個のナノロボットを挿入した人はどうだろう? 5億個ではどうか? ・・○○個より下なら人間で、それを超えれば「ポスト・ヒューマン」というように。

でも、技術の革新や時代のパラダイム・シフトは、結構気づかないうちに当たり前になっていくものなんじゃないかと思っています。例えばこの20年くらいの間にも、変わったことなんて沢山あっても思い出すのがちょっと難しいように。それが具体的に何の技術の進歩によるものか分からなくても今iPhoneを手にしているように。技術を受けている側からすれば、受け入れる速度も加速度的に当たり前になっていくような気がします。

この本を読んでいると、自然と未来を知りたくなりますが、この「知りたい」というのが曲者だなあとつくづく感じる。「死」への恐怖と同じくらい、「知りたい」という欲求はすごい。寿命がいくら伸ばせてもそんなに長く生きていたくないや〜、と生きることに無頓着であっても、100年後、1000年後のこの世界がどうなっているか知れるよと言われると、ちょっと心動かされてしまう。明日の天気、あの人の好きな事、暴露話、解けない数式、イカの生体、宇宙は何か、、、知りたい気持ちは飽くなき欲求です。


今、お台場の日本科学未来館で開催されている特別展示は、そんな話と少しリンクしたような企画展なんじゃないかと思います。


「永遠の生を手にいれることができたら、ほしいですか?」「テクノロジーの進歩によって失われたものはありますか?」などの73の質問とともに、世界の「終わり」を考える自己対話型の内容だそうです。

それから、ポスト・ヒューマン時代をより現実的に描いているというこの映画。




土日で観てみます。

レイ・カーツワイルの本は日本語題では「ポスト・ヒューマン」となっていますが、実際読んでいくとどこかの時点でポスト・ヒューマンが生まれるというものではなくて、私たち自身が生物進化をぶっ壊して人間の限界を拡張していくということを意味していました。

そんな時代が来ても、わたしは普通に眠ったり夢をみたりするのかな。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という映画がありましたけど、ポスト・ヒューマンは何の夢を見るんだろう。

ヒューマン!

2012年3月17日土曜日

イカを知る

 タイトルがあまりにキャッチーだったので手に取ってみました。

『イカの心を探る』池田譲 2011

イカは美味しい。煮ても焼いても生でも美味しい。でもイカ自身のことはほとんど知らないに等しい。近くにいる人のことほど実は知らないことが多い。
しかしこの本を読み、イカの見方が変わりました。イカに対する無知を恥じ、イカへの敬意すら湧きました。イカってすごい。



のほほん、としているように見えるイカ。
でも実はとても繊細な生き物で、「飼育不可能な最後の海洋生物」と言われてきたそうです。

確かにパッケージされたイカは山ほど見たことがあっても、泳いでいるイカのイメージはあまりない・・ 水族館でタコはいてもイカはいない。

それはイカが大変神経質なため、水質、餌、あらゆる面において飼育が難しく、水槽にポーンと入れただけではすぐに死んでしまうからだそう。逆にタコはストレスに強いようで、私たちの口に入るときに、まだ動いている!ということがあるように、水揚げされてからでもしばらく生きていたりする。

世界の中でもイカを最も消費し、最もイカと馴染みが深い日本なので、進んだ研究がたくさん行われているのかと言えば、そんなイカの扱いの難しさもあり、まだまだ分からないことが多いという。

ミステリアスな存在、イカ。
さらに謎めかせるのは、イカが動物界にも例を見ない巨大神経を持っていること、そして他の生き物の脳のサイズと比べると、体に対して異常に大きい脳を持っていること。そのためイカは学習能力や記憶に関して高い能力が認められていること。しかしなぜ巨大脳が発達したのか、イカの賢さはなんのためか、については今のところはっきりとした答えがない。

宇宙人のようなイカ。
昔の火星人のイメージといえば、まさしくイカやタコのような形をしていて、脳が発達し頭が大きい頭足類に似た姿だった。イカの持つ異様に大きい目も、そう考えると何をじっと見ているのか、何を思っているのか気になってくる。

この本では、実は複雑な情報処理能力を持っているイカが「他者を見分けているのか」、「自分というものを認識するのか」、「イカのソーシャルネットワークはどのようなものか」などといったイカの認知に関する様々な研究事例の紹介を通して、イカの心を探っています。実験結果だけだと難しくなりそうなところ、著者のイカへの畏敬の念がにじみ出て、イカの心になってみる独特の観察視点も面白いので意外と読みやすい本でした。

この本でイカへの興味がわいたものの、そもそもイカの基本情報については全く知らなかったので、続いてこの本を手に入れました。


『イカ・タコ ガイドブック』 土屋光太郎 2002

こちらは写真中心の図鑑的な本になっています。全ページカラーで、色んな種類のイカ、タコがいっぱいのガイドブックです。それも海中で撮られたものばかりなので新鮮なイカの姿が見られます。解説やコラムも充実しているのが良い所です。この本は「ネイチャーガイドブック」というシリーズのもので、ほかにも「ウミウシ」「クラゲ」「イソギンチャク」などのガイドブックが出ているのでそちらも気になります。

体の色を変化させるイカ、イカの卵、赤ちゃんイカなど、どの写真を見てもイカの不思議さを感じますが、なかでもニュウドウイカとダイバーが一緒に写っている写真は引きました。海で巨大イカと出会ったらまちがいなくキャー!です。怖い。

そして次に手にとるとしたらこの本を読んでみたいです。


『イカはしゃべるし、空も飛ぶ』奥谷喬司
読んでびっくり! イカのイカした話
トビウオのように海面上を飛ぶ! 体色の七変化で求愛! 身近な存在であるイカについての知らない話が満載。かつて話題を集めた”イカ専門書”が新装版で登場。 
 池田譲さんも『イカの心を探る』の中で推薦していた本で、土屋さんの恩師でもあるという奥谷先生の本です。これはイカの研究者の共通点なのか、イカへの愛情が溢れているのはもちろん、池田さんも土屋さんも妙に解説の文章にユーモアがあるのが印象的だったので、きっと奥谷先生の本もそうなんじゃないかと思っています。
 

『新鮮イカ学』 奥谷喬司
世界最小のヒメイカや最大のダイオウイカの生態、イカの知能の解明などに迫るいかしたはなし16話。
こちらも読んでみたい。やたら「いかしたはなし」を押しています。

死んだイカしかお目にかかる時がないので、いつか泳いでいるイカを見てみたいです。


2012年2月29日水曜日

2日で読む本つながり


雨の日の夜。

休みの日の雪。

その次に好きなのは  寒い日の読書。

冬の寒い日は外の空気をよそにぬくぬく読書に限る。 というのは少し嘘で、雨や雪や寒さを口実にして引きこもりたいだけです・・・でも暑い日だけは何もしたくないな。
 

エンターテイメントなストーリーを一気読みしたかったので、ダン・ブラウンの『ロスト・シンボル』にしました。

 

ついつい夜更かししてしまうくらい展開も気になるし、知的好奇心をそそるような宗教や科学の話もちりばめられていて、ベストセラー中のベストセラー本はやっぱりおもしろいのです。今回のテーマはフリーメーソンと純粋知性科学についてで、ちょっと興味が行き過ぎるとトンデモ本とかに辿りつきそうだけど、何が本当で何が嘘か分からないくらいでまとまっている感じがちょうど楽しめる。しかし早くも魔方陣とかカバラとか怪しいことが気になっています。。




一気読みといえば、『ジェノサイド』も現実にあり得そうという程度にあり得ない設定と、大量虐殺を行ってきた人間の歴史というテーマと、ストーリーの展開力があわさって2日で読んだ本でした。テーマや設定も大掛かりなので、はじめ翻訳本かなと思ってしまいました。スケールが大きい話は最後にぐちゃぐちゃに終わらないか心配になるけど、この本は破綻なく読み終えることができてよかった。面白かったので同じ高野和明さんの『13階段』という死刑制度をテーマにした本も読んでみました。




『ジェノサイド』を読んだとき、ジョン・ダーントンの『ネアンデルタール』を思い出しました。絶滅したネアンデルタール人が実は今も存在して、人間とは違うコミュニケーションの力を持っているというような話。ストーリー力はダン・ブラウンなどに比べるとさすがに落ちるけどノンストップで読めるし、この人の本は取り上げるテーマが好きです。ダーウィンの進化論が生まれる経緯に、じつは隠された陰謀があったという話、『The Darwin Conspiracy』も面白かった。




2日で一気読みの王道東野圭吾、の中でも『虹を操る少年』はちょっとサイエンス要素が含まれていて印象に残った本でした。人間は、バイオフォトンという微量の光を出しているという設定を使った話。

1日で読み切るには生活に支障がでるので、一気読みはやっぱり2日がちょうどよい。定番ベストセラーは面白いこと間違いないし、科学、宗教、生命に関わるような好きなテーマが添えられていると読み応えがあってよい。

だから結果なんなのかというと、私はインディージョーンズが好きで、ハリウッド的なものはやっぱり面白いヨ、ということ。

ひょ!


2011年12月29日木曜日

想像のかたまり


ハーモニウム(Harmonium)
水星でこれまでに発見された、ただひとつの生物だ。ハーモニウムは、ほら穴に住んでいるんだよ。これよりも美しい生物はちょっと想像できない。
(『いろいろなふしぎと、なにをすればよいかの子ども百科』)


これまで色々な物語の中で生まれてきた空想上の生き物。。。
そのなかでいちばん美しく素敵な存在は、この本のなかに。


『タイタンの妖女』
カート・ヴォネガット・ジュニア(1959)

SF小説で世界観に入りこむまで読み進めにくいけれど、全て読み終わるとおとぎ話を読んだような感覚になる。不思議。むかしからあるような神話みたいで、完璧で残酷な物語。

話の中で主人公が水星に彷徨い着いたとき出会うのが、ハーモニウムという謎の生き物たち。性は一つしかないし、感覚は触覚しかない。
彼らは弱いテレパシー能力を持っているけれど、送信し受信できるメッセージはたった二つだけ。

"here I am(ボクハココニイル)"
"so glad you are(キミガソコニイテヨカッタ)"

。。。たったこんな言葉が、じじじじーんと胸を打つ。
その感動を味わって以来、ずっと心に残っている言葉。こんな見事なコミュニケーションあるかな。そんなことで、わたしのブログタイトルもここから付けてみたりしたのです。

この生き物は、小さな菱形で半透明になっている。水星の洞窟の壁からは黄色い光がでているが、その透明体を通り抜けるとき、光はアクアマリンの色に変わる。何の意味もないけど、その色と形をつかって、壁の上で整列し模様をつくって遊ぶ。水星がうたう歌を食べて生きている・・・そしてその音楽好きなところと、美への奉仕のために熱心に形づくろうとするところから、地球人たちがハーモニウムという美しい名前を与えたという。そんな素敵な生き物。


あたりまえだけども
やっぱり物語は物語で
音楽は音楽で 
絵画は絵画で
それ以外では表せないものが凝縮している。

どれだけここでハーモニウムを説明しても、物語の中でこそじゃなきゃ味わえない感動がある。その興奮を人はどうしても伝えたいから言葉で表そうとするけど、言葉とはなんてはがゆくて不完全なツールなんだろう。だからハーモニウムに憧れるんだけども。

作者がこの生命体を思いついたときにはどんなイメージが巡って、どんな感動があったかな。全然考え及ばない。でもハーモニウムまでの美しい想像はできなくても、その端くれは誰の日々のなかにもちりばめられてるんじゃないかな。


..それはふと目を落としたコーヒーカップの中に ?


..それともレンズを通せば見える光の流れの中に ?

いつか想像のかたまりになるといいな

2011年12月6日火曜日

『古美術と現代』吉沢忠

昭和の時代に活躍された美術史家、吉沢忠氏の本を読んだ。

吉沢忠『古美術と現代』(1954) 東京大学出版会


奥付を見ると、著者の住所欄まである。定価は330円となっていて、時代を感じる。戦争が終わって9年、1954年(昭和29年)に出版されているのでもう60年近く経つ。

内容は、当時の美術政策に対する批判や、美術界・古美術界の実情、芸術の本質について、また観賞者の立場や現代画家の問題点など、吉沢氏がいろいろな雑誌などに寄せた40本ほどの文章を収めた作りになっている。謙虚に、でも鋭く、真摯な文章。

戦後からの60年という時間は、物事が発展するのに十分な長さを持っているような気がするけれど、この本で書かれた美術の世界に対する問題意識などは、読み終わってみると学ぶこと、考えさせられることがあり、内容については決して古いという感覚がなかった。それはこの60年のあいだで、それほど大きな変化がなかったということなんだろうか。

この本の中にあえて基調をなしているテーマがあるとすれば「日本美術における伝統と創造の関係」といえるかもしれない、とあとがきにある。もしかすると2011年の今でも、このテーマに対する状況がそれほど変わっていないからなのかもしれない。時代感覚があまりピンとこないけれど、今の自分の親が生まれたのが大体60年くらい前。その頃と現在とを考えると、表面は大きく変わって見えるけれど、本質はそれほど変わらないような感じもする。


現代の日本の美術は、自分の中に生きている古典をもたぬ。


という指摘がいくつかの文章を通して見られた。美術の世界だけでなく言えることだろうけれど、この一文を読むと、自分のことを省みて心が痛くなる。無意識に影響を受けながら、日本について知らない事が多すぎる。世界との距離が近くなり、客観的な日本人としての自分をより認識させられるような時代になって、今を生きる人たちはうすうす、、というより深刻に、日本の伝統や過去についてしっかり消化することの大切さに気づきつつあると思う。

過去と向き合うこと、過去との「対決」をしていないと吉沢氏いわく、古いものが、ずるずると、かすのように私たちの中にこびりついてしまう。

ずるずるとした かす・・

例えば、形式を受け入れることが伝統を受け継いだかのごとく錯覚し、形や技巧だけを踏襲したような形骸化した美術を生みだすこととなる。過去と対決できていないということは、つまりその現実ともきびしく対決できていない結果である。この本のあちらこちらで何度か登場するこの問題点。冷静な文章の中でも強い憂いをもって訴えられるこの点が、「日本美術における伝統と創造の関係」の問題点でもある。

戦後になると、デパートなどでも古美術展が開かれたり、古美術関連の本がぞくぞく出版されるような古美術ブームが訪れたという。過去を見つめる目がふえることは、その再評価を行えるチャンスだし、一見よろこぶべきような状況にも見えるが、安心してはいられないと吉沢氏はいう。なぜなら、過去の美術はどこか彼岸のものとして観賞され、現代の美術の創造と関係のないところで、古美術が切り離されてしまっているからだと。

過去を過去として切り離してしまう現象は、急速に発展した美術史研究が、単なる様式の変遷の解釈と、美術家たちの伝記集で終わってしまっていることに同様に見られる。日本の伝統、古典というものが形式だけのものとして解釈されてしまい、現在の私たちの中に生きているものとして捉えられない。これからの美術の創造と関わらないところで終始していることが、日本美術における伝統と創造との関係性となっている。

感覚的には、「つながっている感じ」を持てていないということだろうか。過去と現在の間に時空の歪みがあるみたいに、過去への直線を遡っていくうちに突如もう1本の平行線が現れるような。「○○時代の頃は~」と語るとき、どこか自分たちの歴史ではないような、他人事の感覚が少なくとも自分にはあるんじゃないか。

この本が出版されたのは、ちょうど高度成長の時代にさしかかった頃。だからこそよけいに、過去を清算せず急速に進んでいく時代を危ぶんで、このような問題を強く意識したのかもしれない。美術論としてだけではなく日本論的にも読める興味深い本。

日本の古美術の海外からの評価という点についても、いかにそれまでの海外での展覧会が政治色の強いものだったかという事情や、国宝や重要美術品がどのように決定されていたのか、日本の美術史研究の発展を妨げているものは何なのかという内情についても述べられていたり、純粋に作品の内容ではなく、それらいろいろの要素によって決まってきた美術品の価値や日本美術があることに、美術史の見方の複雑さを知った本でもあった。

日本のこと、美術のこと、何か色々と興味を持ったり知ったりしていこうとすると、この戦後の日本の成長期に足をとどめて過去の美と向き合った人たちのところへ行き着くことが多い。何かこの時代に立ち返るべきものがあるのか、どうなのか。。自分にとってもずるずるとしたものが何なのか見極めたいからかもしれない。

2011年11月5日土曜日

『美の終焉』水尾比呂志

古本屋さんで題名にひかれて購入しました。

『美の終焉』水尾比呂志 (1967)

読み進めていくと民藝の話が思いがけず出てきたので、なんだろうと思ったら、この本の著者水尾さんは、柳宗悦に師事した美術史の研究者で、現在は日本民藝協会の名誉会長でもあり、日本民藝館の理事でもある方だそうで、最近めっきり民藝のことを読んだりすることが多い。

この本が刊行されたのが、昭和42年なので、水尾さんが37歳くらいのころになるのかな。悲観的なタイトルからも想像つくように、この本に収められている論文は、現代から「美」が失われていっているんでないか、という水尾氏の嘆きが出発点となって書かれているものが集められている。大きく3つのパートにわかれていたので、それぞれで気になったところのまとめ。

第1部 美について

美しさとは何か?美が分かるとはどういうことか?美術品とは何を指すのか? ・・・。失われゆく美の話に入る前に、第1部では水尾氏の考える「美」の性質について述べられている。そもそも美術史家の人が、このような美学を論じたり、現代美術を評論したりすることが当時あまり無かったということがあとがきに書かれていた。むしろ、あまり関与しないような慣しがあったのだそう。水尾氏はそういう態度を疑問視し、美術史の研究をする上で「美」がどういう性状のものであるかという課題に立ち向かわねば、研究自体も結局意味が無いのではないかと感じて、第1部にまとめられているような「美」に対する文章を書き重ねてきたということ。
たしかに淡々と事実を語られるだけの美術史はつまらないし、よくもわるくも美術史の人や研究者の人たちの美の捉え方をはっきり言ってくれたほうがおもしろいなと思う。そうじゃないと、美術そのものが見出されていかないだろうし、それによってまた別の視点や見方も生またりするんだろう。
水尾氏は、柳宗悦による民藝思想を受け継いでいるので、美観と言うのか、美の捉え方もまたその思想に裏打ちされている。醜いものに対して美が存在する世界ではなく、自然においては全てがあるがままに美しい。その美観を前提として、たとえば現代の人たちが美を分かる力が無くなっていると感じるなら、「自然美」に立ち返ればいいと言っている。花には醜いものはなく、また花の美しさを否定する人もいない。花に対する予備知識が無くても、瞬時にわたしたちは花の美しさのすべてを理解することができる。美術品の鑑賞態度についても、私たちはつい知識に頼って判断したり、心構えをしがちであるために、知識にベールをかけられてしまい美が分からなくなっている。分かることは「知る」ことではない。「見て」のち「知る」ことを深めてこそ、分かるという境地が開ける、と指摘している。

第2部 美の終焉

水尾氏は、「美」が終わりを迎えつつあるのは近代以降の精神風土の変化によるものだと考えている。近代美術においては、人間の能力が「美」を生み出す最大の要件とされ、一部の天才と呼ばれる人たちの才能や、個性が賛美されてきた。そうして人間性に重きをおいてつくられた美は、醜の対立概念としての美にとどまるので、「自然美」の超越性まで達する事ができなくなる。たとえば原始の美、宗教造型の美、民藝の美などに見られるような、「美」とは性質が違っている。
つまり民藝思想では、美醜の二元論を超越し、個性や自我が排除されたところに「自然美」が宿ると考えているので、自我の目覚めた近代以降の美術の性質には、「自然美」の生まれる隙がないということを言っている。また工芸の分野に関しても、工芸がしだいに作り手の自我や美意識を表現する手段として用いられるようになった頃から工芸美が衰退していってしまったと嘆いている。
近代化以降、滅んでいく手工芸品にかわって登場してきた「機械製品」についても水尾氏は述べている。それらは、機能的な美とか現代の美という言葉であらされることがあるが、ほんとうに美と呼んでいいものなのかと改めて問い、それは「能」という言葉に近い表現で表されるべきでないかと提唱している。
「美」という概念は、本来自然の造化による創造物の性質を表すもの。なので「美」と呼ぶ場合そこに自然性が含まれることになるが、機械は自然を断絶するものである。自然をコントロールし征服する機能を進歩させ、出来上がった機械製品の性質は自然の持つ不完全性を取り去った、均一性と完璧性を持っている。完璧性は美に似た印象を与える場合があるが、それは美と呼ぶべきものではなく、機械の命である機能という概念を発展させた「能」と呼べる性質のものであると結論づけている。

第3部 新しい価値

失われていく「美」を嘆きつつも、水尾氏は美を回復させよう、とかいうことを主張しているのではなかった。人類は機械文明に移行していかざるを得ないので、今後は「能」を正しい姿で発展させていくために、機械をいかに統制し活用するかが重要。その文明が直接的に広く民衆と接する場所は、生活の場における工芸であるので、新しい文明では、民衆の全てが享受しえる民衆工芸の時代であるべきとし、それを「新民衆工芸文化」と名付けている。「新民衆工芸文化」... この第3部については、なんとなく分かるようで、分からない、もやもやした気持ちになりながら読んだ。これまでの民芸の分野も守りつつ、機械製品の「能」の価値を高めていく工芸文化。機械化そのものを目的に「能」を乱用していくのではなく、用の美、ならぬ用の能、みたいに正しく人間に奉仕するモノとして発展させていかねばならないということ。

納得いくようですっきりしないところもありつつ、いろいろ考えをめぐらせながら読み終わった。でも、タイトル通り、美は終わりを迎えたと言い切っているところはおもしろかった。一人の人間が生まれて死んでいくように、美は死んでしまったのかな。美が、というよりも美を生み出す土台となっていた自然文明が終わってしまったということか。
民藝の美の話を読んでいると、人間にも同じ事があてはまるなとよく思う。人にもモノにも、自我とか表面的な装飾でかざられた美とかを越えたところに共通する健やかな美しさというのがあるんだろうなあ。



健やかな動物の瞳。

2011年10月23日日曜日

『柳宗悦』鶴見俊輔

そろそろ 読んだ本のことも
ちゃんと残していこう。

『柳宗悦』 鶴見俊輔 (1976)

この本は、柳宗悦の起こした民藝運動に焦点を当てたものではなくて、その活動を生み出すに至った柳宗悦という人物の独自の哲学観や、生い立ち、人柄について書かれたものでした。

民藝運動から入った柳宗悦についての興味も、じゃあその美的感覚はどこからきたの?民藝思想に至った原点は何なの?と追っていくと、単なる物の見方の啓蒙とか、伝統工芸を救うとか、そういうことだけじゃない、とても個人的な思想が背景にあることがわかる。

面白いのは、若い頃には西洋の科学論や哲学に傾倒しながらも、民藝思想に切り替わるころには全くオリジナルというか、既存の理論に頼ったり、それまでの思想を発展させたものではない、独自の路線に突き進んでいっていること。本人も「知識に頼らず、見る事が先で、後で概念を付け合わす」といっていて、そういう心構えは「今見ヨ  イツ見ルモ」のことばにも表れていると思う。だからといって、柳の至った考えが感覚的なものになっているかといったら全然違って、一つの体系をちゃんとうちたてている。それは鶴見のいうように、父親の影響や、若い頃の学風などによって、実証と分析の方法論が身にしみついていたことと、白樺派の中で培われた分かりやすい文体を重視することや、周囲に感情的な一面を見せない制御された性格があったことで、決して行き過ぎた狂人思想になり得なかった、ということになる。

でもこの本を読んでみて、もう少し柳宗悦のことを知ってみても、やっぱりどこか不思議で捉えられないところがある。何がピンとこないんだろう?
例えば民藝運動のなかでも、「用の美」や「てしごとの美」という価値観については、そこだけどんどん広まって、現代でも確立したものになっているけど、柳の思想全体を通して見たときには、民藝の存在は一つのピースにすぎない気がする。決して重要視してなかったとかじゃなく、民藝品の美の先にあるものを、ずっと見つめていたような感じ。民藝品に対して、素朴な美を単に感じるということだけじゃなくて、崇拝すらするような特別な感情をもっていて、たとえば山とか滝とかに神性が宿るような見方で、民藝品に対峙しているときは自分の宗教的理想をそこに見ていたんじゃないかなと思う。なので柳の言っていることには、新しい美の価値を提唱することに加えて、独自の宗教哲学が含まれているから、その2つをあわせもっている思想のバランスについて、しっくりくるのが難しいのかもしれない。

無欲、無心で、学の無い、名の無いものによって作られた民藝品は、だからこそ親しみのある健康な美を宿す。そういう意味において、すべての作は救われ、そこに美の浄土がある。それは美においての他力道とは言えないか、と『工藝の美』で言っている。
また本人も晩年には、唱えるだけで救われるという念仏宗に帰依し一遍上人に傾倒している。後期に書かれた『南無阿弥陀仏』を読むとたぶんそのことがより分かりそうなので、いつか読んでみたい。

だから個人史をみたときには、最初から最後まで興味の対象は宗教哲学についてであって、たぶんピンときてなかったポイントは、多少民藝品がその個人的な宗教理論に利用されている感があったからかもしれない。その独特な理論の立て方については、かなり初期の頃から本人も意識的に行っていて、哲学の真理の探求は個性の実際の体験をとおしてのみ、明晰な人生観世界観を建設することができると言っている。自分の体験である、芸術や宗教に対する感動が、探求の衝動となっているとして、そういう異端的な経歴を名誉である、とも言っている。そういう点があるから、戦前〜戦後で同時代の哲学者たちが色調を変化させていく中でも、柳が極めてまれな一貫性を保ちつづけた、と鶴見は書いていて、哲学者としての柳宗悦は、かなりユニークな存在なことが分かる。そんな思想家としての柳宗悦の独特さと面白さが理解できるような本でした。

ただ、ひとつ面白いエピソードが書いていて、晩年、病に倒れ不眠症になった柳に対して「念仏を唱えたら寝られるでしょう」と妻が言うと、「念仏なんかきくものか」といってひどく怒ったことがあったそう。息子の宗理によると、おやじは筆では信を唱えても、それは体得した美への裏付けの理論としてに過ぎなかったと思う、と語っている。
あくまで民藝に見た救いも、念仏の救いも、“「凡夫」である人間にとって”、というところが重要で、自分の存在は抜け落ちていたのかもしれない。

でも、やっばり民藝を見出して、日本に眠っていた沢山の地方文化をすくいあげた功績というのは素晴らしいものだとおもう。はじめに柳宗悦に興味を持ったのも、名もない工芸に美を見いだす眼を持っている人として、その美的感覚にひかれたのだし、民藝館に見られる品々も、これが見れてよかったな、と思わせてくれるものがたくさんある。

この本に引用されていたバーナード・リーチの言葉で印象的なものがあった。
「日本が持つ一般の思想はいやなものである。しかしその奥に深く横たわる思想は実に美しい。支那はいつか日本の工業をうちくだくだろう、そして恐らくその時日本は美しい姿をとりもどすだろう」

文化はきっと川みたいなもので、日本に限らずどこの国の文化でも、その上流をたどると美しい流れがそこにはあるんだと思う。


2011年9月14日水曜日

『民藝四十年』を読みました


柳宗悦の『民藝四十年』を読みました。

読み終わったあと、ベッド下から なんと!


あれ〜〜〜  ひどいねえ 。。


柳宗悦さんは、1889年、岡倉天心が上野の美術学校で
校長先生をしていた頃の明治22年から、
1961年まで生きた、「民藝運動」で有名な人です。

この『民藝四十年』は、柳の民藝に関するいくつかの論文が
年代順にまとめられていて、もともとは昭和33年に刊行されたそうです。

そもそも「民藝運動」は何だったのか、については
その趣旨についてはっきり書かれた大切な論文が
この本に入っているので、
柳宗悦の入門書として読むにちょうどよかった。
巻末には、詳しい年譜もついています。

なかなか、この本全てに対する感想は難しいので
いくつかの論稿に絞って、考察をします。


○「雑器の美」1926年(大正15年)

これを書いたころは、まだ「民藝」の語はできていないと思います。
でも、「民藝」とは何だ? に対する
答えは全て書いてあると思います。

そもそも「民藝」の語は、
それまで「美」とすら見られたことのなかった
民衆の作った日常器具に対して、柳が美を見いだしたところからはじまり、
“民衆的な、工藝” の意味から「民藝」という造語ができました。


では、なぜそのような雑器に美が宿るのか?
何をもって美なのか?
について、この論稿でいっていることは、
大体以下のようなポイントでした。

1.それは、実用に耐えられるものなので。
民衆が日常に使う道具であるので、
華美だったり、奇をてらったものではない。
用に耐えるために備わった頑丈な性質には、
偽りのない健全でつつましい美しさがある。

2.それは、名もなき人によってつくられたので。 
雑器をつくるとき、職人は名を刻もうとは思わない。
美をたくらんだり、名を成すために作っているのではない。
貧しい人や、知をもたない人が、生活のために
伝わった手法をそのままに、無心に作りつづける、
そこに無欲の美がある。

3.それは、自然の素材を使っているので。
今のように人工素材があったわけではなく、
自然の素材しかなかった。だからこそ、その素材の特性を
十分に利用し、雑器をつくった。はじめに素材がある。
そのため土地土地の特色が生まれる。

4.それは、多量に生産されるので。
多量につくろうとすると、反復作業と速度が必要になる。
粗雑を生む可能性もあるが、反復は熟練を生み、無駄を省く。
驚くべき速さの動作と反復に、無意識の自然の美が生まれる。

5.それは、手でつくられたものなので。
機械による製品が生まれる前、当たり前のように
すべてが手仕事によってつくられていた。
手による仕事には、筆の走りや、削りの跡に
人が感じられ、またひとつとして同じ物とならない。


そもそも、それまでの雑器については
高級で鑑賞に耐えられるものを 上手もの(じょうずもの)
粗雑で素朴な、大衆的なものを 下手もの(げてもの)
というふうに呼んでいたそうです。

「雑器の美」という題名も、もともとは
「下手ものの美」という原題がつけられていました。

ただ、下手ものの全てが「民藝」なのか、といったらそうではなく、
たまたま柳が美しいと思ったものが、民衆的な性質を持っていたので
それまでの下手ものの誤解をとくためにも、
仮に「民藝」と名づけたという意図でした。


その後、「民芸」という言葉は急速に広がって
柳さんが亡くなってからも、一時ブームとなるほどに、、
消えかけたいくつもの民芸を救ったんだろうと思うけど、
今聞く「民芸品」という響きには、
上ようなことをあまり感じられない

「民芸品」という言葉は、もはや最初の民芸を離れて
べつのものになってしまったと思う。

「民芸品」と聞くと、どことなくあったかさだけは漂うけれど
土産物売り場の、妙に時が止まったようなにおいがしてくる。

『民藝四十年』が刊行されるにあたって、加えられた
「改めて民藝について」(昭和33年)の中にも書かれていたけれど、
「民藝」という言葉にとらわれてはいけない、
ということがもっとも大切だと思う。

新しい言葉は、新しい価値をうむけど、
価値がいつまでも続く事はなくて、いずれ転倒をおこしたりする。
そこに新しい見方が生まれて、
死語がうまれ、新しい言葉がうまれるように、
人はつねに新しい価値を生み出してきたんだと思う。

言葉も形式化してしまうと、ものが見えなくなる。
柳もまずはじめに、「見た」からこそ、下手ものの美を発見できた、
と言っている。


民藝館で見た、柳宗悦の書で、とても印象深い言葉があった。

「今見ヨ イツ見ルモ」

今、いつも今 その時に。 
「民藝」と呼ばれたモノたちも、いつも今、見つめ直さないと
いけないような気がする。

そして、まったく考察まで行き着かなかった・・
まだまだ柳宗悦についてはメモしておきたいので
何回かに分けて書こう。
「自然」とか「宗教」とかのキーワードについても。


あんまり似てないねえ。

2011年9月5日月曜日

本を読んでいます


本の感想は  
“いつ読むか”  
で全く変わってしまうことがある。

だからこそ やっぱり 無理やりでも
書きのこしたほうがいいのかも

と思って、「Books」のカテゴリをつくる予定です。

これも 「まとめる」力の
何かの足しになるんじゃないかと・・・


読んだ本や 見た映画の話を
すごく上手にできる人をみると 感動する。

わたしは すぐに感情を伝えたくなって、
「なんか  ・・・良かったっ ! うん。(・・)  」  
こうなることが多い。

こういうのは、「数学」の勉強をしなかったこと
とかに関係してる気がするけど
それは また別のときに  。。


しかし 本を読んでるだけじゃ
分からないことがものすごいあって 
本ばっかり読んでる場合じゃないと思うけど、
読みたい本も どんどん溜まるから
どうしたらいいの この感じ。

本を大量に読んでる人は
頭の中をどう整理しているのか教えてほしい


ま、でも地道にすこしずつ。

何かを読んでも 何かを見ても 
はっきりさせずに 
思考をぐにゃぐにゃで放置すると
次の衝撃で 混乱状態になってしまうから。 
もしくは 見たことすら忘れてしまうとか。


できれば テトリスみたいに  ?

次々とインプットをしたときに 頭のなかで
向きを変えて、形を確かめて、

いつかの「あれ」は、 さっきの「これ」とつながって
なるほどなるほど と 消化していけるように。




今はこつこつブロックづくりを。。