2012年12月30日日曜日
感想 「会田誠展」いってきました
何かの番組で秋元康先生が、生きていることはその時代の目撃者であること、のようなことを言っていたのが心に残っています。
会田誠展を見るというのも、今、now、この場所で、同時代を生きているからこそ目撃しておかなければいけないような気がしたので足を運んでみました。
好き、嫌いに関わらずと思いつつ、これまで会田さんの作品を積極的に見た事は無いし、エロ的グロ的なセカイが広がっているのかなあと六本木ヒルズを見上げながら怖じ気づく・・・ ひとまずお茶を一杯。緊張感を和らげてから53階へと向かいました。
「美術館」での個展は初のことだそうで、展覧会は20年以上にわたる会田さんの作品をおおよそ時系列で見ていくことができました。
最初は何だかビートたけしの笑いを思わせるような作品から始まって、戦争、少女などのテーマが現れたと思うと、ビン・ラディンに扮した映像が流れていたり。表現方法も形式も何かにとどまることなく、次々と試みが重ねられていく会田さんのセカイがありました。
ばかみたいなもの、気持ち悪いもの、へんなもの。
一見そんな風に見えるものが多々あって、展覧会の間中、この人ってどういう人なんだろうと考えざるを得ませんでした。
会田さんの作品はやれそうと思っても、ふつうそれは作品化しようと思わないのでは?という「ふつうそれは、」のラインを軽々と越えてしまっています。何も取り繕わず、表そうとしたものをそのまま世にお披露目している態度でいること自体がすごいなと感じました。
「今日もっとも注目されている日本の現代アーティストのひとりです。」
と紹介されていましたが、いわゆる現代アーティストとしての立場とか、アート市場のことにも、はなから関わっていないしこだわってもいない人物なんだろうなと。
とはいえ、作品を洗練させたいし、良いところ見せたいし、簡単に言えば「誰かを気にする」ことは人ならばアーティストだってあると思うんです。でもこの人はそこをまんまオープンにしてしまうような。ありのまま、1965年生まれの芸大を出た会田誠という人間の作ったもの。自分の存在が全ての作品の根源で、前提で、自分の中から排出できるものをどんどんさらけ出している人、そんな人かなと思いました。考えれば考えるほどじわじわと、騙されたかなと思うほど、会田さんという人の持つ魅力を感じました。
腸のようなモチーフで埋め尽くされたピンク色の部屋があり、「どうしてこれを作りたかったか謎」ということが書かれていました。ご本人がどこまで色々なことを意図してやっているのか分からないですが、「どうして」という部分を追求し尽くさずに、形として作品に落としどころを持って完成させているのは、長年作り続けてきた力技を持ってるんだなあと思いました。
散らかっているように見えて、意味の無いようにみえて、でもなんだか結局考えてしまう自分がいます。
「美術が扱うのは本質ではなく表面だ」
という言葉が心に残りました。それは裏腹な言葉にも聞こえて、物事のガワだけを意識して描き続けることは、結局本質を現してしまうこともあるんだと思います。
2000年以降の作品になると、サイズがばかみたいに大きい大作が現れました。
最後の展示室に進むと、すっぽり巨大な部屋におさまった巨大な絵がいくつも。「継続中」と書かれ、今も描き続けられている未完成の作品も2つありました。夜な夜なここで筆を進めているそうです。
個人の好みではこの部屋の作品が一番好きで、大きい空間と絵が作り上げている不思議な場を感じながら、特にラストの「電信柱、カラス、その他」が最も素晴らしくて見入ってしまいました。“困った時の伝統頼み”と本人が言われているように、この画も等伯の松竹図の要素を取り入れているそうです。靄のなか揺れる松竹の空気感を思わせながらも「今この時代この場所」でしか描けない仕上がりになっているところに、またもや力技を感じました。
1965年生まれという事は、会田さんは40代後半になるんですね。
ここ数年の作品は、今まさに気力・体力の最高潮にいるのではと思わされる迫力と迫真がありました。大きいものを描き上げるだけで相当の体力が要ることと思います。
にしてもエロとかグロなものを一番和らげているのは、会田さんのビジュアルが相当大きいなあと思います。同じ事を違う人がすると作品のニュアンスまで変わってしまいそう。
なんだか別に会田さんのこととか・・
と思い続けないで、きっちり見に行ってみて大変良かった展覧会でした。
私が訪れた頃は、図録もまだ仕上げ中で販売されておらず、作品リストも会場にありませんでした。今図録はAmazonでも購入できるようで、作品リストは展覧会サイトからダウンロードできました。
『会田誠作品集 天才でごめんなさい』2012
・作品リストpdf
2012年12月18日火曜日
感想 「巨匠たちの英国水彩画展」いってきました
12月の一番目はBunkamura ザ・ミュージアムの「巨匠たちの英国水彩画展」でした。
イギリス美術のこともよくわからなければ、水彩画というとまず小学校の美術の授業が思い出されるくらい。すこし退屈を心配しながらいってみたのですが、ほかにはない水彩の世界に引き込まれ、結局かなり長居した展覧会でもありました。
Francis Towne 1777
今回いちばん好きだったのはフランシス・タウンという人の絵。ほかにも沢山の人による風景画が見られたのですが、この人のだけはすこしジブリっぽくてアニメな感じ。現実の風景なのにちょっとしたファンタジー要素が紛れ込んでいる気がして、欲しいなあと思う絵でした。
このような風景画が描かれた18世紀後半〜19世紀は、イギリスの裕福な人たちの間で国内外への旅行が盛んになった頃だそうです。旅行が流行るということは、各地の見所を紹介するガイドブックも出版されるようになり、写真がまだないこの頃は風景画がその役目を果たし人気を博していたということ。
画家たちはそんな「画になる風景」を求め絵を描いていたようですが、絵にふさわしい、絵のような景観の魅力を指す言葉として「ピクチャレスク」という概念も生み出され流行するように。展覧会では自然の絵だけでなく、古城や大聖堂、廃墟などの絵も多かったのですが、古代の廃墟などは特に「ピクチャレスク」の典型だということです。
大体イギリスの美術のことがよく分からないので、参考のため一冊本をゲットしてみました。
『イギリス美術』高橋裕子 1998
世紀末美術あたりまでのおおまかなイギリス美術の流れが書かれてある本でした。ほかに簡単に手に入りそうなイギリス美術史の本がさっと見つからなかったのが心残りです。絶対これだけではないと思うのですが、何があるんだろう。
そもそもイギリスではこの18、19世紀より前の美術史となると目立った発展をしてこなかったそうです。というのは大げさだと思いますが、イタリアやフランスなど当時の正当派美術理論からすると、最も格の高い絵は「歴史画」。「目の前にあるものを写し取るだけの技術」よりも、「人間の意義ある行為」を描く方が高尚だとされていたので、その観点から見ると、なぜかそれまで「肖像画」が一躍流行していたイギリスという国は美術史において芸術的な弱点があるともされてしまうのが一般的評価らしいのです。
そんなフランスなどに立ち後れる形で、1768年にイギリスでも美術アカデミーが設立。
「遅れた」ことが結局イギリスにとって独特の価値観を生むことに繋がったようで、アカデミーが設立される少し前には、エドマンド・バーグという哲学者が『崇高と美の観念の起源』という美術理論を発表しています。そこではラファエロの調和的な「美」を最高位に置いた17〜18世紀のフランスアカデミーの価値観に対して、「サブライム(崇高)」という荒削りで力強く、人を畏怖させることで魅惑する特性が最高の美的観念であるとして、バーグはそれまで個性的であるため否定的に評価されていたミケランジェロを再評価し、新しい理論を生み出したそうなのです。このエドマンド・バーグの本読んでみたいリスト行きです。
「ピクチャレスク」というのはウィリアム・ギルピンやユーヴェデイル・プライスといった人たちが発展させた理論で、これは「美」と「サブライム」の中間、もしくはどちらでもないけれど明らかに美的満足感を与えるもう一つの特性、として出来た美学的概念だということでした。
ピクチャレスク、と聞いたときに、写真が登場しはじめた頃に言われていた「ピクトリアリズム」という言葉を思い出しました。まだ芸術と見なされていなかった写真を芸術的に確立させるため、絵画的な主題や構図を模倣するような写真が撮られ、絵的な美しさを写真に同様にあてはめた概念のことでした。この考え方も同じくイギリスから生まれたものです。
肖像画の発展、風景画の発展、と結局時代の流れによって「写真」にその座を奪われてしまう所で絵を発展させてきたというのは、その頃のイギリスにだけ何か独特なものがあったのかなと面白い気がします。
それにしても画になる写真「ピクトリアリズム」は、写真が絵から離れ独自の表現方法を目指していく時代に変わっていくうちに廃れていったと思いきや、今では例えばInstagramとか流行っているのを考えれば、「画的なもの」というのがまたどこかから現れてぐるっと螺旋の階段を登っているような感覚にもなります。
展覧会名にある「巨匠たちの〜」ことまで辿りつかないのですが、巨匠と指されているのは、ターナー、ブレイク、ミレイ、ロセッティ、バーン=ジョーンズ・・など18世紀後半〜19世紀にかけて活躍した画家たち。
わたしのなかでターナーといえば夏目漱石を思い出し、ブレイクといえば柳宗悦、ミレイもやっぱり『草枕』に出てくる「オフィーリア」の話で、ロセッティ、バーン=ジョーンズは青木繁、と彼らを通じて名前を聞いたイメージが強い。いまだ明治時代のエゲレス的感覚でしか彼らを知らないような気がします。
特にターナーさんについてはいつかきちんと知らなければと、不思議に思う一人でした。
Joseph Mallord William Turner 自画像 1775〜1851
本人は鼻が大きいのが嫌だったらしいですけど、結構かっこよさげに描いてると思うんですが。。すこし小泉進次郎さんを思わせる眼差しではないでしょうか。
ターナーの絵を時々どこかで見かけていつも不思議だったこと。
19世紀末には印象主義が生まれました。
20世紀になると表現主義が発展しました。
と教科書的な断片知識をもったままターナーの代表的な絵を見ると、彼らより以前にこのもわもわした画を描いているこの人はじゃあ何なのよ??といつも不思議でした。
ターナー「吹雪」 1843
これは油彩になるので今回は出ていなかったものですが、ターナーがお願いしてなんと舟のマストに体を縛りつけてもらい、嵐の中4時間も海を眺め続けて生まれたという作品らしいです。「石鹸の泡と水漆喰のかたまり」と酷評されたものらしいですが。ターナー何なの?とますます気になるばかりです。
ターナーの絵はこのような革新的な絵ばかりではないのですが、やはり印象的なのは、火事や雪崩や荒れ狂う海など、人が太刀打ちできない自然の荒々しさを描いているもの。それはまさしく今回知った「サブライム」の概念に通じるところにある絵でした。
展覧会ではピクチャレスクが流行した頃のターナーの水彩画を見たので、まだ形がしっかりとどまっている風景や廃墟などの絵も見る事ができました。ロイヤル・アカデミーで学び若くして名声を得たターナーは、流行していた地誌的出版物の原画を描く仕事を油彩画制作と並行しながら行っていたそうです。旅行などの人の往来が盛んになり世の中の距離が縮まってくるこの時代、ターナーが画を描き、銅板画で版画化し出版する・・ 日本でもちょうど広重や北斎の「東海道五十三次」「富嶽三十六景」などの風景版画シリーズが出される前でもあり、ターナーを「ロンドンの浮世絵師」と呼んでいる本もありました。
『ターナー』藤田治彦 2001
ターナーについてはこちらの本を読んでみました。画がたくさん収められている100ページ程度の本です。分かるような分からないような、いまいちしっくり来ない本でした。
もう一人、今回はじめて知って気になった人のメモを。
Alexander Cozens 1717〜1786
アレグザンダー・カズンズという人。水墨っぽい表現だったり「染みこませによる素描」とか書かれていて変わった人だなと絵を見ていました。
この人はイギリスの水彩画発展の基礎を築いたと言われる、ロシア生まれのお方だそうです。偶然性の高いしみ(ブロット)を発展させて風景画を描く手法を提案していたらしく実験的なことをしていた人のもよう。その息子さんジョン・ロバート・カズンズも画家として活躍していて、ターナーはその人たちの作品の模写などで水彩画の技法を吸収していったらしいです。
ちょうど読んでいた椹木野衣さんの本で水墨画についての箇所があって、
西洋美術の世界では偶然性や不確実性を人の技芸の及ばぬ領域として非常に嫌った、構造によらない造形では修練が意味を為さなくなるし、偶然性を認めると画家としての向上もなくなるからだ、
というような事が書かれてありました。
これまで積極的に為されなかったような偶然を利用するとか、風景画の発達とかいうことがイギリス水彩画の世界で起こったことは、やっぱりイギリスに何か独特な美術を生むものがあったのだと思いますし、今回でイギリス美術への興味がかなり増しました。
『反アート入門』椹木 野衣 2010
結局、水彩画とターナーのことで頭がいっぱいになってしまったのですが、展覧会にはミレイなどのラファエル前派の作品やブレイクなどもあり、ロセッティの絵もはじめて見ましたが見惚れてしまったので、彼らのことももっとしっかり知ろうと思いつつ、、
読んでみようと思う本だけ決めてまだ読まずじまい。
『ラファエル前派』ローランス デ・カール 2001
これは面白いのかなあ。
今回手に取った本は求めている感じにぴったり来なかったので、イギリス美術関連の本に心配がつのります。
2012年11月30日金曜日
こんぴらふねふね
しゅら しゅしゅしゅ。
その昔、インドにはワニの姿をした神様クンピーラがいました。
神様たちの世界は複雑で、クンピーラが仏教の世界にあらわれると宮毘羅(くびら)大将、別名・金毘羅(こんぴら)さまと呼ばれます。
香川県、今の「こんぴらさん」がある山は元々松尾山と呼ばれる山で、お釈迦さまをご本尊とする松尾寺というお寺がありました。金毘羅さまはお釈迦様が修行したというヒフラ山の守護者だったので、そんなご縁もあり一緒におまつりされることに。
金毘羅さまは海や水に関わるお方、松尾山は瀬戸内の海に出る舟人たちの目印にもなる場所なので、航海の神としての存在が増すようになり・・土地の神様方とも習合しながら金毘羅さまの力はだんだんと大きくなり、ついに「金毘羅大権現」と呼ばれ崇められるように。
もともと金毘羅さまの守っていたヒフラ山というのは「象の頭」を意味する言葉。ということで、松尾山がいまでは象頭山(ぞうずさん)と呼ばれることになったのだとも。
しかしながら人間も勝手なもので、明治時代になると神仏分離を行ったので、仏さまが仮の姿として神さまの形になっている「権現」というもの自体が禁止に。そして松尾寺は廃寺になり、いまの金刀比羅宮と改められる。。
正確には違っているかもですが、というのが「こんぴらさん」についてかいつまんで分かったこと。すごいです人の考えることは。神様たちはなんのこっちゃ分からなかったんじゃないでしょうか。
そんな通称「こんぴらさん」へ大人になってはじめて行きました。
奥社までは行きませんでしたが、本宮までの785段の石段を登りました。
しんどいけれどなぜか楽しくそして清々しく、お参りのために登っていくという行為がしっくり来ました。下りながら参拝に行くのはいやだしなあ。上と下、天と地。やっぱり何かに登りたいんですね人間。
かっこいい。こまいぬがわんさか。
かれこれ昔の時代から、この道をどんな人たちが何を思って登っていたのかしら。江戸時代には金毘羅参りはお伊勢参りと同じくらい大流行になっていたというし。ふもとにあった琴平町立歴史民俗資料館という人っ子ひとりいない場所で、かつて賑わっていた門前町のミニチュアが見られました。
しかし今回の一番の目的は、金刀比羅宮の中の表書院を飾っている円山応挙の障壁画を見てみたかったのです。神仏分離以前は「金光院松尾寺」であったこんぴらさん。応挙に絵をお願いしたのは、お寺を統率していた代々の金光院さんの中の宥存(ゆうぞん)さんという人。応挙の前には、若冲にもお願いして奥書院のほうに絵を描いてもらったということで、他にも金光院のお歴々は文化に造形の深い人物が多く、芸術家への支援や書画の収集などもおこなっていたそう。
「鶴の間」から始まる6つの間を見られる表書院は、残念ながら部屋の中からの鑑賞が出来なかったので、各部屋を覗き魔のように外からじーっと眺めるしかありませんでした。応挙のことについてはまた別でちゃんと考えたいですが、最後の「富士の間」の富士山のすそがずーっと襖を続いて行く邨田丹陵の絵がとても良かった。これは明治35年に描かれたんだそうです。
しぶいお庭でした。表書院は金光院さんが客殿として使用するために1658〜1660年頃に建てられた建築物。格の高い訪問客をもてなす部屋、従者を待たせておく部屋など、各間の用途に沿った画題があり全体の連続性があり、それでもって金光院さんの権威を示すように巧みに計算され描かれている障壁画。「デザイン」という言葉に直接対応する日本語が無かったというのを以前知りましたが、すでに隅から隅まで計算しつくす空間デザインの考えがあったからこそ、あえて言葉が必要なかったのではと思わされました。
小さい子が一生懸命「おーい、おーい」と呼びかけてやっと頭をあげてくれた白いお馬は、神さまが乗られる神馬(しんめ)。やほー!
お参りをした後は、登ってきた階段コースとは別の裏参道コースで下山しました。階段の賑やかな参道とは違って、裏道は山の木々の中を抜けて行くルート。紅葉の綺麗なシーズンなのになぜか人が全然居ない。「こちらへお進みください」と立て看板を掛けてきたくなったほど、ほれぼれするような色の世界がありました。
抽象的な概念がいろいろあるなかでも「神聖」というのはいったい何なんだろう。
疲れたらほっと一息。
2012年11月26日月曜日
デビュー30周年
♪アンパンマンのマーチ
「時ははやくすぎる 光る星は消える」
そんな歌詞がこの歌にあるなんて知らなかったですが、時はあっと言う間に過ぎて、最近はじめての30歳になりました。
なにが君のしあわせ
なにをしてよろこぶ
わからないまま おわる
そんなのはいやだ!
もしかすると、30歳くらいの年頃には一番ズドーンとくる歌なのでは・・ この歌を子どもが声を大に歌っていると思うときゅんとします。 やなせ先生!
30になったことで、意気込んだことや決めた事はまだ何もありませんが、これからも人生が続いて行くんだという当たり前のことを、今いちばん考えています。点を重視して生きてきたのが、やっと線を意識しています。大人になるのが遅いですね、だいぶ刹那的に生きてきました。
今のこの点は何かにつながるストーリーに。
今わたしが生きている 今この文字を入力している瞬間が
時代の最先端。
だからストーリーはわからない。
♪ORIGINAL LOVE カミングスーン feat. スチャダラパー
2012年11月23日金曜日
感想 「古道具、その行き先」展 いってきました
松涛美術館での「古道具、その行き先-坂田和實の40年-」展。
目白で古道具店を営む坂田和實さんがこれまで関わってきた骨董、古美術、古道具。数々の物達とその独自の「古道具」の世界を紹介するという展覧会。すごく良かったので、場所が近いこともあり、二度も足を運んでしまいました。
ほこ、ほんわ、、
松濤美術館の建物と古道具達が絶妙にあわさっていて、そこに居るだけで落ち着くというか、なんならそのままひと眠りしたくなるような居心地の良さ。2階の深々したソファにどさっと座り、場所と物によって作られる調和のなかで心地よい時間を過ごしました。感じたことをあまり言葉で表現してしまいたくないような、静かであったかい展覧会でした。
カーブのすてきな建物。設計は白井晟一さん。
坂田和實さんの古道具を見ていると、やっぱり柳宗悦さんからの流れを外しては考えらません。柳さんの物を見つめる眼と態度、生活の中で使われるものに見出した美。しかし展示されている物達を見ていると、坂田さんの眼はもう少し違うところにあるのが分かりました。アフリカの部族の家のドア、皿の破片、錆びた鋏、魚焼き網など本来の目的ではもう使う事ができないほど朽ちているような物、石像、古いキリスト像などいつかどこかの場所で使われてきた祈りにまつわる物・・・。
柳さんは「用の美」を唱えてきたけれど、坂田さんの物は「用」の役割を終え、寿命の終盤にさしかかった「用」たちの行く末。それを例えば「無用の美」と呼ぶのは何となく違う気もしていて。人の生活の中で思う存分愛着され使われてきた物の最後の姿を見ていると、さとりの境地のような、美を超越しているところにある物だと思えました。
そうして言葉にしていくと、だんだん堅苦しく小難しくなってしまうけれど、民藝館を訪れて思う事や、今回の展示品を見て思った事にもどこか一緒の部分があって、なんというか「おじいちゃんみたい」・・
時代のうねりの中を生き抜き月日が過ぎて、年を重ねていったおじいちゃん。無理したり、取り繕ったり、ひけらかしたりしない、そんな人に似ている感じがしました。
普段の生活の中では見捨てられているような物達。
見捨てられるどころか、誰も気にとめていない、見られる眼すら持たれていない物達。
今見ヨ イツ見ルモ
という柳宗悦の言葉をよく思い出すようにしていますが、今回、すこし意外な坂田さんの目線を目の当たりにし、また新しいものを発見したことで、“見るものはここからここまで”と自分のなかでまだまだ制限をつけているのでは、とちょっぴり反省の気持ちでした。
チョイスする、という行為は、それだけで人に何か考えさせ、モノの価値を一度ニュートラルにすることが出来る。という点では、「撮る」行為であらゆる物事の意味を均一にする写真にも似て、カメラのことを同時に考えた展覧会でもありました。ただし、チョイスするということで新たな創造を生み出すには、選び抜いているモノが何なのか、自分の眼とずっと対峙し続けなければいけないんだろうなと思います。
既成の考えを壊す、という意味では写真だけに限らず現代のアートの性質もそうであり、当初は坂田さんの選んだ物を現代美術と組み合わせて展覧するという案もあったと図録に書かれていました。今回は「結局は受け取り手側の心の問題」とする坂田さんの思想に沿い、受け取り手としての坂田さんの仕事をあらたに見る機会をめざすことになったということ。
だからといって、展覧会自体は何か考えることを強制させるために構成されているわけでもなく、各々が自由気ままに考えたり、考えなかったりできる心地よさがありました。押し付けがましくされない、見ている物を越えて色んなことに思いを巡らせることのできる素晴らしい展覧会でした。
展覧会の図録。写真はホンマタカシさん、デザインは有山達也さん。目で実際に見た時とはまた違う感じを与えてくれる、こちらもほこ、ほんわ、、の素敵なカタログ。
古道具達を見ていると、先日の「お伽草子展」で見た『付喪神絵巻』のことを思い出しました。
道ばたに捨てられた古道具達が人間に復讐しようとするお話。
大切に見つけてもらった坂田さんのところの物達はこんな悪い事しそうにないです。
2012年11月20日火曜日
感想 「小村雪岱展」 いってきました
ニューオータニ美術館で開催中の「大正・昭和のグラフィックデザイン 小村雪岱展」を見てきました。
小村雪岱(こむら せったい 1887〜1940)。
本の装幀、挿絵、舞台装置、商業広告など幅広い分野で活躍した人。
いったい何でこの人を知ったのか忘れてしまったけれど、すっきりしてセンスがあって粋な雰囲気を持つ絵を見たときに、この人はどういう人なんだろうと、いつかちゃんと知ってみようと思っていた人でした。
おせん 1937年
展覧会は、雪岱さんの装幀した本が中心となっていて、ほとんど個人蔵のものばかりかなりの数の書籍が出ていました。それから手がけた舞台装置の原画など。その中でもやっぱり絵や挿絵が気になりずっと眺めていたのですが・・・。
どうしても感想がうまく言葉にならない。モダンでセンスの良い素敵な絵、という以上に見れば見るほど漂う不可思議な雰囲気。それは一体なんなんだろう、と展覧会場を出るまでずっとモヤモヤとしていたのでした。
後日、画集を眺めたり本を読んだりしながら、私にとってのモヤを紐解いてみました。
まず、雪岱さんの画を眺めれば眺めるほど感じてくる距離感。
「私って田舎者・・」と思ってしまうような、田舎者の私には到底分かり得ない江戸情緒みたいなものが核となっているためか、そこが個人的に一線を越えて近づけない部分だと思いました。憧れと気後れの同居です。
雪岱さんが亡くなったときに、初めて江戸っ子で無いことを知った、と山口蓬春が残していましたが、雪岱さんの画には洗練された風情が含まれています。生まれは埼玉の川越。小江戸とも呼ばれた場所に育ち、幼い頃に父親を無くし、母親は家を出るという込み入った環境のなか、16歳の頃日本橋檜物町の書家の家に寄宿することに。花街である檜物町で思春期を過ごしながら絵の勉強をはじめ、18歳に生涯の師ともなるような泉鏡花にめぐりあう。
泉鏡花の描く小説の人物や場所は、雪岱自身の複雑な生い立ちがそのまま重なるようで、その共感がなおさら鏡花との深い結びつきを生むことになったとも言われていますが、特に女性の絵など見ているとそういう世界観があるからか、他の絵とはちょっと違う感じを受けました。
それに雪岱さんの女性の画はどれもどこか似ていて、そこに人がいるはずなのに、体臭はなくて香りだけがあるような実在感のなさ。世にある人事を描いているのに、画面の中は重力も弱そうで、まるでファンタジーのよう。現実感、生々しさの薄さが不思議な感覚に引き込む要因でしょうか。夢現(ゆめうつつ)の世界です。
そんな画は、とても洗練されて完成されているのに、画だけで存在しているとどこか抜け殻みたいに思えるときがありました。挿絵も装幀も舞台装置も、雪岱さんの関わったのは文章があり人物がいて物語と合わさった時に完成するものばかり。人物が無表情に見えるのも心を収める余地のためだと思いますが、風景にも全体の構成にも、こちらの何か心情をその画にきっちり入れれば全てが完結するような絵なんだと思いました。
この機会、雪岱さんを知るために読んだ本。
『小村雪岱』星川清司 1996
この本はすばらしく良かったです。普通の人物評伝とは違うおもむきの内容ですが、この本をじっくりじっくり読めば、小村雪岱がいた風景が分かる、そんな本でした。
「此書は雪岱伝でもないし、雪岱評伝でもない。雪岱と、雪岱をめぐる人びとと、そうしたひとたちが生きていた時代の相(すがた)のはかなさを垣間みようとした書である。」と、ご本人はあとがきで述べていましたが、一般の評伝よりもよっぽどその人のことがわかる本でした。
ある人を調べようと本を開くと、その時代はどうだったのか、その親しくしていた人はどんな人だったのか、いちいち中断しながら自分で注釈を入れつつ読まなければいけなかったりしますが、この本はそれら周辺の事も含めて書かれているので寄り道せず雪岱の生きた世界に入り込むことができました。
人物を語る本が、淡々と事実を述べおもしろ味のない文章であるべきと誰も決めた事はないので、美しい文章で誰まとめられたこんなタイプの本があってもいいんだなと思った、本当に素敵な本でした。
『小村雪岱』1978 形象社
こちらは大型本の画集。雪岱さんのただ一人の門下生でもあった山本武夫さんによる解説文や、他何名かの文章が収録されていました。大きな画面で絵を眺めたいと思ってこの本を借りてみましたが、購入しようとなると手頃な金額で買える大きなサイズのものがないです。一番最近では、2010年に阿部出版という版画関連の書籍などを出版しているところから『小村雪岱作品集』というのが出ていましたが、3万円弱と根性の必要な金額でした。
小村雪岱の絵には、どこまでも私が分かり得ない世界が含まれています。けれど今を生きる私が抽出したいエッセンスはそこではなくて、現代から見てもどこか心動かす普遍的な表現の部分についてです。
雪岱さんの絵の腕前には、日本画を学んでいた経験がかなり生きているということです。仏画や絵巻物、浮世絵などの模写に励んだ経験、日本画の下村観山や松岡映丘にも師事していたこともあり、今回読んだ本のどこかに「感覚は浮世絵、描写は絵巻」によると書かれていてうなずけました。
おそらく私の惹かれているのは後者の部分と思うのですが、その要素の合わさり具合が絶妙な雪岱さんの画。画から学び、心にあるイメージを描いていたからか、写生をしなかったという話も印象に残っています。それから仏画や人物画が主で、山水などにもあまり興味がなかったということも。
2012年11月8日木曜日
歩く そして 歩く
歩くのはきらい
だけど 歩いているときは好きです。
頭のなかがぐるんぐるん、関係ないことがバチバチっと
たまに火花をあげて結びつくような時間です。
それは、電車のなかとお風呂のなか、眠りに入る前も多いですが、
歩いているときがNo.1のような気がします。
なぜなんでしょうか。いざ脳を集中させようと意気込むほど、思い通りに頭のなかのネットワークは活性化してくれません。
たんに単純作業をすればいいってもんでもないような気がします。
料理とか編み物とか写経とか、それだと心地いいけれど、ぐるんぐるん感はないです。むしろ思考をどこかに追いやって休止モードにしているようです。
きっと脳科学などでは理屈があって、分かっていることがあるんだと思います。
歩きながら、メモ。 歩きながら、メモ。
流れ過ぎていく視界の風景のように、どこかで捕まえないと、とりとめもなく頭を通り過ぎていってしまいます。けれど、単語が断片的に現れ、イメージの端切れがよぎり、いつかの記憶が登場し、空想が交差して、、、メモにするのも難しい言葉によらない形。
「言葉」によらないその感覚を感じるのが、もしかすると楽しいのかもしれないです。
魚が水を泳ぐように
鳥が空を飛ぶように
私はその辺をぶらぶら歩く
きっとそれが基本のかたち
たぶん今はベスト of 歩くシーズン。
今日は歩いてかえろう。
だけど 歩いているときは好きです。
頭のなかがぐるんぐるん、関係ないことがバチバチっと
たまに火花をあげて結びつくような時間です。
それは、電車のなかとお風呂のなか、眠りに入る前も多いですが、
歩いているときがNo.1のような気がします。
なぜなんでしょうか。いざ脳を集中させようと意気込むほど、思い通りに頭のなかのネットワークは活性化してくれません。
たんに単純作業をすればいいってもんでもないような気がします。
料理とか編み物とか写経とか、それだと心地いいけれど、ぐるんぐるん感はないです。むしろ思考をどこかに追いやって休止モードにしているようです。
きっと脳科学などでは理屈があって、分かっていることがあるんだと思います。
歩きながら、メモ。 歩きながら、メモ。
流れ過ぎていく視界の風景のように、どこかで捕まえないと、とりとめもなく頭を通り過ぎていってしまいます。けれど、単語が断片的に現れ、イメージの端切れがよぎり、いつかの記憶が登場し、空想が交差して、、、メモにするのも難しい言葉によらない形。
「言葉」によらないその感覚を感じるのが、もしかすると楽しいのかもしれないです。
魚が水を泳ぐように
鳥が空を飛ぶように
私はその辺をぶらぶら歩く
きっとそれが基本のかたち
ここはどこ どこはここそこはどこ そこもここHEY HEY行き先は いつもここ
WALKINGOF THE WALKINGBY THE WALKINGFOR THE WALKING
TOMOVSKY 「散歩のための散歩」
今日は歩いてかえろう。
2012年11月5日月曜日
感想 「お伽草子 この国は物語にあふれている」いってきました
今年一番楽しみにしていたかもしれないサントリー美術館の「お伽草子」展。
絵巻や絵本の形で楽しまれた「お伽草子」は、室町時代から江戸初期にかけて盛んに作られ、広まっていった短編物語の総称。「この国は物語にあふれている」と展覧会のサブタイトルにあるように、現存しているものでも400種以上の作品が存在しているといわれています。絵の中の世界はどこかかわいくてほのぼのしていて・・・とても戦乱の世に作られたとは思えません。こんなに楽しい物語を作り出し鑑賞する余裕はどこにあったのかと、時代背景を知るとなおさら不思議になります。
お伽草子に心ひかれる理由。
それはやっぱり絵のかわいらしさと素朴さでしょうか? 何百年前のものでも今に通じる「かわいいー」があります。中には恐い絵もあり全てがそうではないですが、親しみの湧く絵を見ていると、当時の人とそれほど変わらない感覚で今も見られる気がします。絵を見るだけでも楽しくて、気軽にお伽草子の世界に入っていくことができます。
かわいいの代表といえば、ねずみが主人公の「鼠草子絵巻」。
サントリー美術館が現代語訳したものを絵本の形にして出版している素敵な本がありますが、それを見ながら一場面を写してみました。みんな着物も違って、名前も一匹一匹ついていて、一場面だけでも楽しめる要素がたくさんです。
この物語は需要があったためにいくつか伝本があり、サントリー美術館のものだけでなく東京国立博物館の所蔵品も今回一緒に展示されていました。
鼠草紙はすごくかわいくまとまっていて完成度が高いのですが、お伽草子のなかでも魅力的に思うのは、今で言う「へたうま」的な絵の作品があることです。へたうまというより、「へた」かもしれないです。でもそこに何ともいえない魅力があって、絵巻の展覧会などになると、まだ見ぬおもしろ作品があるのではないかと、ぎこちない絵を探そうとしてしまいます。
そんな絵を「素朴絵」と呼び、本にまとめている方がいます。
『日本の素朴絵』矢島新 2011
「鎧で固めた歴史の中を、裸で通り抜けてきた「素朴」のある事実が、なにより嬉しい。」というこの本の帯にあった赤瀬川原平さんの言葉がとても好きです。美しく風雅な文化を築き上げてきたなかで、のんきに素朴が通り過ぎていくのを想像するとほほえましくなります。この「かわいい」はやっぱり日本の大事な感覚です。
この本にはお伽草子以外にもきゅんとくるツボな素朴絵の数々が紹介されていますが、今回展覧会に出品されていたものもいくつか載っています。
お伽草子に見られる素朴絵のなかで、最も破格の表現といえば、やはり日本民藝館所蔵の浦島絵巻のラストシーンなのではないかと思います。
こういう感じで、箱をあけると煙が首にダイレクトに刺さるっていう、恐ろしい描写です。民藝館ではじめてみたときには度肝を抜かれました。
ちょうどこの場面を今回も見ることが出来ましたが、それを見ている人を見るだけでも楽しめました。
民藝館といえば、もう一点。心をわし掴みにする「築島物語絵巻」というものがあります。素朴絵の代表格で、矢島さんの本の表紙にもなっているものです。今回出品されるのかなと思っていたのですが、どうやらこの時期はパリで開かれている展覧会に出ているようでした。残念でしたが、しかし描いた人もまさかフランスまで行くとは想像もしなかったことと思います。
絵を見ているだけでも楽しいお伽草子ですが、ストーリー自体も「へん」だったりするのが心ひかれる二つ目の理由です。沢山の人に楽しまれてきただけあって、お話自体も分かりやすいのがポイントです。
テーマが面白い「付喪神絵巻」は、人間に復讐する古道具たちの話。展開が急な「掃墨物語絵巻」は、おしろいと眉墨を間違えて真っ黒な顔で来客を迎えてしまった女性がそれを機に出家するという話。おならってやっぱりいつの時代もおもしろなのか、突然妙音を出せるようになった男の話「福富草紙」などなど、短編でむりやりまとめようとするからこうなったのか、その荒唐無稽なストーリーの発想はどこから出てきたものなのか、とても気になるところです。
内容も面白いので一つ一つゆっくり読みたいのですが、絵巻や絵本形式だと展覧会では一場面しか見られなかったりするので、お伽草子は手元に欲しくなってしまいます。
お伽草子展の図録。これだけでも楽しめます。
今回は、高岸輝さんという現在は東京大学大学院の准教授の方による講演会もあわせて聴いてきました。テーマは「戦国時代のお伽草子絵巻流行と土佐光信」。
とっぴな絵巻の世界に向き合い、長い間土佐光信の研究をされてきた高岸さんという方は、静かなユーモアあわせもっていてお話自体おもしろかったのと、堅苦しくなく土佐光信という人を知る事ができて大変良い機会になりました。
室町初期から朝廷の御用絵師をつとめていた土佐派というのは、5世代目にあたる土佐光信の活躍で最盛期を迎え土佐派としての画系を確立したそうです。
彼の時代はちょうど東山文化が華開いていたころ、雪舟と同時代の人になりますが、当時では光信のほうが断然メジャーで画家としてトップの地位にいる人物だったということ。展覧会には光信筆と考えられている「地蔵草紙絵巻」という絵を見ることができました。宮廷お抱え絵師というくらいなので、かなり格式張った絵かと思いきや、ちょっとゆるさがあるのが意外でした。
「地獄草紙絵巻」の最後。大蛇になってしまった僧が呪いからとけ、背中からぱっくり抜け出ることができた場面を写してみました。シリアスなシーンだと思うのですが、ほんわとしてます。
光信に至るまでの土佐派の絵の変遷も講演会で見せてもらいましたが、一言でいえばだんだんとかわいくなるのがその特徴ということ。光信は古典的なやまと絵を踏襲するだけでなく、細かい情景や心情が伺えるようなニュアンスを描き出し、独自のスタイルを築き上げています。「土佐光信という芸術家」と講演会の資料には書かれていましたが、絵師ではなくあえて芸術家としているところに、光信の別格さを物語る高岸先生の思いがあるようで印象的なフレーズでした。時代や文化的にも転換期を迎えていたなかで、伝統から絵を作る単なる絵師にとどまらず、自らの目で見て絵を作ろうとした人というところに、光信という人の評価があることが分かりました。
「光信の目」の一端も見られるのが、三条西実隆という人の似顔絵ということです。
これを見た実隆は「十分不似、比興也(似てねー、面白い)」と残しているそうですが、絵を見るとリアルに目の前の人を描写している感じが伝わります。本人が認めたくなかっただけでこれは絶対に似ている、と高岸先生が断固として言われていたことがおもしろかったです。
「地獄草紙絵巻」の詞書は、この三条西実隆という人によって書かれたものと考えられているそうです。三条西実隆さんは室町時代の最高のインテリともいわれるお公家さんで、光信との最強コンビによって、宮廷や将軍、天皇など文化の頂点にいる人たちの高い鑑賞眼にかなうよう絵巻などが制作されていたということでした。
また、天皇などがお伽草子を楽しんでいたことは、日記などの資料にも残っているそうで、なかでも足利義政の子の義尚がかなりの絵巻オタクで、天皇と絵巻の貸し借りをしていたというおもしろいエピソードの紹介もありました。
たのしい講演を聴いたので、そんな高岸先生の書いた本はないのかなと図書館で2冊借りてみました。
『室町王権と絵画―初期土佐派研究』高岸輝 2004
『室町絵巻の魔力―再生と創造の中世』高岸輝 2008
上のほうは土佐派の系譜などについて学術的に書かれている本だったので、本格的に土佐派のことが気になったときにがっつり読んでみたい本でした。下のほうは「室町絵巻」とテーマが広がっていて、今回聴いた将軍家と絵巻の関わりや個別の作品についても触れられていましたが、とはいえこちらも研究的な本でしたので軽く読み流せるタイプではなかったです。どちらも室町時代と絵巻について深堀りしたい時の参考書的なものでした。
講演会のタイトルを見た時は、土佐光信ってだれやねん、という気持ちが満載でしたが、自分のなかで知名度が低いものを簡単に見逃してしまうってよくないなと、ふたたび強く思いました。だいすきな庶民的なお伽草子が生まれてきたのも、そんな社会のトップクラスの人たちがそのプロトタイプの制作に関わり、作り上げていった文化があったことを今回は学びました。そして土佐光信さんに出会えてよかったです。
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