2012年6月25日月曜日

感想 「福田平八郎と日本画モダン」いってきました



「福田平八郎と日本画モダン」展について。
これまで福田平八郎について知ったことを出来るだけ頭から追いやって、 山種美術館へいってきました。

2012年は、福田平八郎の生誕120年。そこで平八郎のモダンな感覚に焦点を当てて、これまでの画業の振り返りと、同時代の作家たちの作品をあわせて見るというのがこの展覧会の趣旨でした。時代の移り変わりと共に、様式の変化を試行錯誤していた日本画家たち。その中でも、単純な色面と簡潔な画面を指向し、デザイン的センスを持った画家のみが作り上げることができたスタイルを「日本画モダン」という造語を用いて一つの括りとしています。

「センス」と言うように、改めて見ても優れた色彩感覚にはっとさせられます。このセンスがなければ、平八郎の作品はつまらないものになっただろうなと感じました。

「青柿」 1938年

そして前期では、「漣(さざなみ)」をメインにやはり見たかったのですが、あれ?思ったよりギラギラしていない。

「銀屛風に群青で描いたのが、光を表す上に効果があったと思います。」

と本人の回想の言葉が印象的だったので、銀とはどんな感じなんだろうと想像していました。
それが今回の解説を見ると、実は銀屛風ではなく、金屏風の上にプラチナ箔を貼っているものだということを知り驚き。
この話は結局、銀屛風を注文したつもりが手違いで金屛風が届いてしまい、時間がなかったので上から銀箔を貼ったそうなのですが、後で調べたところ実はプラチナ箔だったというオチでした。
会場には、銀だけ/金の上に銀箔/金の上にプラチナ箔の場合、どう見えるかを比較できる資料がありました。それを見比べながら「漣」を見てみると、一番やわらかい印象になる金+プラチナ箔の効果によって、自然光が水面に当たって輝いているようにも見え、結果オーライというか一番良かったのではないかと思えます。

それからこちらも改めて分かりましたが、「平八郎」という名前の書き方も絵のスタイルが変わっていくように、しだいに緩やかに大らかな文字になっていっているのでした。

    
左から40代、50代、60代・・
より「へいはちろう感」が増していっています。


同時代の作家たちの作品では、やはり個人的に川端龍子の作品が気になりました。山種美術館でいつも作品を初めて見る度に、不思議な印象に捉われます。それは平八郎とはまた違った、色の迫力と構図の奇妙さです。この人についても、いつかしっかり知ってみようと思います。

それから名前も知らなかった人の作品では、この「宙(おおぞら)」という絵が心に残りました。

「宙」山田申吾 1973年 

「雲の画家」とも呼ばれた人だそうですが、「山田申吾」で画像検索をしてみても雲の絵が全然出て来ない・・。もっと他の雲の作品を見てみたいのですが。本の装幀を多く手がけていたようで、文学本の画像が色々と出てきました。
寝転がって空を見上げているときに、ふと遠近感が分からなくなってしまう、そんな気持になる空の絵でした。


そして、後期は「漣」と交代して「雨」が登場。川端龍子の別の絵も見られるようなので、行ってみたいと思います。



図録。今回はコンパクトな形のものでした。収められていた山下先生のお話も、今WEB上で読めるものと共通している部分もあったので、図版として持っておく用とするならこれでなくても良いかなという感じです。


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「福田平八郎と日本画モダン」ギャラリーツアーいってきました(7/6)

2012年6月22日金曜日

感想 「ボストン美術館展」いってきました




ボストン美術館展にいってきました。
東博での展示が終了する週末に訪れたので、雨にもかかわらず平成館の前には大行列。。中に入れば、椅子に座ってぐったりしている人多数。最終週と休日は二度と上野に行かないと心に決めました。

「吉備大臣入唐絵巻」は一番人で溢れかえる前半に展示されていたので、案の定、人・人・人でどこに絵巻があるか分からない状態。

昭和初期に、この絵巻の海外流出が発覚したことが契機となり、歴史上重要な美術品は国の許可が無いと海外輸出してはいけないという「重要美術品」の法整備がされたという話をききました。
今回ボストン美術館から帰国した選りすぐりの品々を見て、絵巻、仏像、着物、刀剣、屛風、、とこんなに多くの、それも日本美術にとって重要なものが出て行ってしまったのかと少しさみしい気持ちになりました。
しかし、このコレクションが形作られる当時は、日本が自国の文化を顧みず、西欧に倣えと一直線に近代化への道を進もうとしていた時。「吉備大臣入唐絵巻」でさえ、10年ほど売れずじまいなので商人が困っていたといいます。そんな時代に、かのフェノロサ、ビゲロー、モースらが日本美術の芸術的価値を見出し、収集していった作品の数々が、ボストン美術館へと次々収められていきました。
さみしさ半分。でも彼らがコレクションしてくれていなければ、今回見た作品はちりぢりばらばらになったり、行方知れずになったかもしれません。さみしいの一言で片付けてしまうのもなんだか他人事で、日本人自ら勝手に流出させてしまったんだから何とも言いようがない。そう思うと、大切な日本の美術品を大規模に集めてくれたこと、その収集も彼らにしか出来なかったと思うと、ありがとうフェノロサ! 今日この美術作品たちを見ることができて嬉しいです、とお礼を述べたいです。

出品数は全部で70点。もっと沢山見た気がします。すべてが目玉作品級のため、感想も沢山ですが、個人的に忘れたくない気持ちだけ覚え書き。


「江流百里図」狩野芳崖 1828〜1888
なんでしょうか、この生理的な曲線の膨らみ。こんなタッチの漫画をみたことあるような。パトロン的存在であったフェノロサの理想とする絵画の理念に従い制作した、晩年の作品。実物を見ると画像よりさらに違和感がありました。


「帷子 染分麻地御座船梅竹模様」 江戸時代
麻布を単衣仕立てにした夏の小袖を帷子(かたびら)と呼ぶ・・そうです。繊細さ大胆さ遊び心の同居した美しい着物たちが展示されていましたが、これが一番好きでした。画像では生地感や、細部の手の込んだ色とりどりの装飾の感じが失われてしまい全く分からないですが、わ〜素敵!と感嘆の声が出そうでした。舟に乗っている人々がまあ楽しげ。


「松島図屛風」尾形光琳 1658〜1716
やっぱりこれは見たかったです。金色に輝く麺。のような波。光琳が元にして描いたという宗達の松島図はフリアー美術館に。2つを並べて見てみたい。図版でしかお目にした事はないですが、インスパイアの元となった宗達のほうがやはり好きです。


 「十雪図屛風」(右隻)狩野山雪 1590〜1561
 十雪図というのは、「雪」にまつわる10の文人逸話を絵画化したものを指すそうです。かっちり整った美しい絵、完成されすぎた絵というのは、なんとなく面白みがなく見過ごしてしまいますが、この作品は整い加減が執拗すぎて逆に眼がとまる絵でした。強調された緻密さや技巧的な表現ばかりが気になり、絵の内容が全然頭に入ってこないというか、それはそれで面白いなあと思いました。

「龐居士・霊昭女図屏風」曾我蕭白

 「雲龍図」曾我蕭白

 「商山四皓図屏風」(右隻)曾我蕭白

最後の蕭白たたみかけゾーンは迫力の渦巻く展示室になっていました。「龐居士・霊昭女図屏風」は、もしこの絵の世界が現実ならば、多分恐ろしくて気絶してしまいそうな、薄ら気味悪さがありました。「雲龍図」はとにかくデカいという迫力、しっぽを踏まれてるようなぎゃふん顔をした龍。そしていちばん見たかった「商山四皓図屏風」では、ザッサーという筆の勢いと速さに驚き。そして上手い。商山四皓のうち三人が右隻の右から三人で、後一人は左隻に登場。その人が一番好きです。


中国の賢人たちも、 曾我蕭白の手にかかればこんなことに。この人はロバに股がりきれているのか分かりませんが、後ろ姿が何とも言えずかわいい。

どれもこれも同じ人が描いたとは思えない。蕭白は最低でも2人はいそうな気がしてしまいます。この振り幅と、奇天烈さ。とにかく曾我蕭白は変人だと心の底から思いました。


見終わった後は、お決まり考古ゾーンで埴輪を眺めて一休憩。
踊る埴輪の小さなスタンプがあったので買ってみました。



ho!

2012年6月9日土曜日

福田平八郎展 ひとまずその前に


5/26から始まっている山種美術館での福田平八郎展、
楽しみにこれから行こうと思っています。

以前に「筍」を初めて見て以来、福田さんについて読んだりしてきましたが、山種美術館へ行く前にひとまず整理します。


福田平八郎さん。
1892年(明治25年)に大分で生まれ、京都で活躍し、1974年(昭和49年)82歳で亡くなる。

経歴を見ると、世間からの評価が得られず苦しんだ画家、とは正反対のタイプ。若い頃から順調に日本画の技法を身につけ、世に出る機会にも恵まれ順風満帆な画家人生に見える。近代日本画壇の巨匠として名を残している人物。


「漣(さざなみ)」「筍」「雨」、 代表的な作品。
絵の構図は不思議だし、時代をあまり感じさせない。何なんだろう?
と気になってしまうのがこの人の絵。模様化されたような風景と、単純化された造形、なんでこんなことになったんだろうと疑問が出てきます。

このような表現に至るまでについて、本人の回顧録では、絵専(京都市立絵画専門学校)時代の中井宗太郎先生の言葉が、方向性を定めるきっかけとなったと言っています。
福田について語られるときは必ず紹介されるのがこの言葉、

「自然を隔絶する幕(先輩の技法)を取り除く必要がある。自然に直面して、土田麦僊君の如く主観的に進むか、榊原紫峰君のように客観的に進むかであるが、君は自然を客観的にみつめてゆくほうがよくはないか」

伝統的な中国の花鳥画や桃山時代の障壁画などの技法を学び、学校時代はつねに優秀な成績を収めてきた彼が、卒業制作のときに初めて制作の苦しみを覚えた際に受けたアドバイスです。
そしてこの言葉を羅針盤として、「雨」を発表した1953年(昭和28年)頃まで、自然を客観的に見つめるという態度を守っていったそうです。

しかし、ここでいう「土田麦僊のように主観的」と「榊原紫峰のように客観的」がちょっとわかりません。客観的に見つめる自然ってなに? あとで考えようと思います。

その後数年を経て、第3回帝展(帝国美術院美術展覧会)に出品した「鯉」が特選となり、宮内省に買い上げられた事で、一気に評判が高まり身辺に変化が。依頼画を受けたり、画商が訪れたりと、自分自身の勉強に専念できないことが辛くなり、故郷の大分に一時帰郷。

京都に近すぎないちょうどほっとできる故郷の距離。そういう時に引きこもれる場所があるのは良いよなあと思いつつ、人気が出たからって調子に乗ったりしない人柄が窺い知れる話でした。
人柄といえば落款の話も。「平八郎」と書かれた下には「馬安」「馬平安」「平」のどれかの角印が使われていますが、馬と安はお父さんとお母さんの名前の一字から。学校時代は、「平八郎」ではなく「九州」という号を使っていたというのも、なんだかかわいい話です。


鯉 1921年(大正10年)

とはいえこの頃の絵は後に生まれるものと全く別なスタイルです。
ここから「牡丹」「閑庭待春」を発表していくあいだに、古典形式と訣別し、「朝顔」「茄子」などを通して、自然に対するこれまでの微細な見方を反省。もっと大きな自然を感じたいと中国旅行へ。その事がブレイクスルーの足がかりに。

1929年に発表した「南蛮黍」では、その方向性をにおわせるような表現に変化をしています。残念ながらこの作品は行方不明とのこと。行方不明になった背景には、首藤定という人物と戦争にまつわる話が関わっていました。


南蛮黍 1929年(昭和4年)

福田さんは、モノを見た時、 まず最初に色に惹き付けられると言っています。色の表現もこの頃からだんだんと自由になり、「カラリスト」「色彩画家」と呼ばれることになる特徴的な色使いを手に入れていきます。

その色彩感覚に加えて、
それまで希薄だった独自の表現や新しい様式を生み出したいという課題、
細部にこだわり過ぎず、自然のダイナミズムを掴み取りたいという課題、
が合わさりその答えが出たように、ここから約3年後「漣」が生まれています。

そこで構図についての疑問が残ります。
山種美術館のサイトでは、福田平八郎展にまつわる山下裕二先生、鈴木芳雄さんの対談ページが公開されていますが、その中で面白い話がありました。

岡本東洋(1891ー1969)という写真家について、中川馨さんという人が行った研究の中で、この人の写真と福田さんの絵の構図にとても良くにたものがあることが分かっているそうなのです。


『動物・植物写真と日本近代絵画』中川馨

その研究がまとめられた本です。価格が5,250円とちょと高いので、本屋さんで少し見てきたのですが、これは後でゆっくり読んでみたいです。
岡本東洋さんという写真家は、主に画家のための資料用として、動物や植物の写真を撮りながら活動していた人で、約300人に10数万枚くらいの写真を提供したそうです。
確実に提供したのが分かっている人には、竹内栖鳳らがいるようですが、事実が確認できていない画家達の中にも、岡本東洋の写真を資料として使ったと明らかに分かるほど、よく似た構図の絵があるということです。

「漣」についても、岡本東洋の写真の構図との類似性が指摘されていて、比較したものを見ると、どう考えても写真が参考になっていたとしか思えないほどでした。

福田の絵の構図が、トリミングされたような斬新な構図と言われているのは、写真からの影響が大きいのかもしれません。福田を解説しているものを読んでも、構図の大胆さに述べられているものはあっても、どうしてそうなったのか、何によってなのかということがはっきり分からなかったので、もやもやしていた部分でした。

そしてこの岡本東洋さんの写真は、感性豊かな画家達の手に渡ることを前提としていたからか、単に動物や草花を撮りましたという写真ではなく、それ自体が絵のような叙情的な印象を受けました。

奥村土牛の「醍醐」に似ていると言われる

『花鳥写真図鑑』という全6冊からなる昭和5年に出版されている岡本さんの写真集があります。一冊の中にぎっしり写真がつまっていて、最後に草花と動物の解説があります。お花の解説を書いているのは牧野富太郎さんでした。岡本さんについての展覧会がいつかあれば行きたいなと思います。


とはいえ福田さんの作品を最後の時期まで追っていくと、大きな展覧会への出品をやめた69歳以降は、それまでの雰囲気とはまた違った絵になっていきます。晩年の作品は何かを突き詰めようとするものではなく、心の赴くまま自分が受け止めた自然を愛情持って描いたような絵でした。

こちらも良く紹介される、福田さんが75歳の時の言葉。
「私の絵は、分かりやすく言えば、写実を基本にした装飾画と言えると思います。」

福田さんの絵は、ただの自然の美しさだけがあるところが好きです。寂しかったり、悩ましかったり、理論めいていたりしない。描いた人の気持ちと繋がっていたりしない。よく考えるとかなり難しいことのように思います。自然を客観的に見つめることとは、そのように主観的な事によって目に写る自然ではなく、あるがままの自然を受けとめ表現することを指していたのかなあと思いました。


福田さんについて見たり読んだりした本。


『福田平八郎 (Suiko arts)』島田康寛編 2001

コンパクトサイズの画集。初期の頃から晩年の作まで、一つ一つにつけられた解説を読み進めると、福田平八郎という人についても分かる。平八郎の残したスケッチ、アルバムからの写真、コンパクトな年譜も。全部がコンパクトにちょうどまとめられている本。

『福田平八郎 (現代の日本画)』島田康寛編 1991

こちらも同じく、島田康寛さん編集による大型本。解説は全作品にはついてなかったですが、大きい紙面と綺麗な印刷で見やすい本。さらに詳しい年譜と評伝あり。
 

『東山魁夷/福田平八郎(Art Gallery Japan)』岩崎吉一 原田平作 1986

美しい自然を捉えた東山魁夷と福田さんで一冊を二分割。解説は多いですが、掲載作品は1/2。福田自身による数点の作品解説と、写生についての文章が少し入っていました。

『現代日本美術全集 愛蔵普及版 (6) 福田平八郎集』矢内原伊作 竹田道太郎 1973

こちらも福田の作品解説少しと、中井先生のエピソードも含まれている「大正の頃」という回想録が1ページ入っていました。解説は一番多かったかも。でもスケッチは一部白黒だったり。現代の日本画の方がカラーの図版も作品数も多いです。

『福田平八郎』横川毅一郎 1949

福田さんと親交の深かった美術評論家の横川毅一郎さんによる評伝。横川さんとは他の画家も含めた六潮会という芸術家仲間の会のメンバーでもあります。「雨」が発表されるまだ前、福田さんが57歳ころに出版されている本です。


さてさてさて、山種美術館の福田平八郎展は、この見たり読んだりしたことを全て忘れて訪れたいです。前期・後期で入れ替わり作品があるようなので、ちょっとめんどくさいですが全部見たいしどちらも行ってみようと思います。


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「福田平八郎と日本画モダン」ギャラリーツアーいってきました(7/6)