2013年3月20日水曜日

感想 「白隠展」いってきました


Bunkamuraで開催されていた白隠の展覧会。

「質、量ともに史上最高の白隠展」とパンフレットにも書かれていましたが、未だかつてこれほどの規模での白隠展というのは無かったということで、ちょっと記念的な存在となる会だった模様。イベントなどもずいぶん盛りだくさんでしたし、力の入り方がグイグイ伝わる展覧会でした。

「白隠」と聞くと色々取り上げられているし、
ここ最近の流れしか知らないので、美術の面ではかなり有名人なんだとすっかり思っていました。でもそれはやっぱりここ最近のことらしく、これまでそのユニークさが取り上げられることはあっても、正統な「日本美術史」にはなかなか組み込まれておらず、美術史的な意義が語られることがなかった、というのが実情なんだそうです。

とりあえず図録など参照しつつ、これまでの美術面からの「白隠」の扱いはどんな感じだったのかをメモ。

「白隠」と名のつく展覧会。過去にはちらほら各地でありつつも、主なのはこんな感じ。
1958年 東京国立近代美術館での「白隠の芸術:水墨画と書」
1986年 継続的に白隠展が行われている佐野美術館での「白隠・禅の芸術展:生誕300年記念」
2004年 生誕系では京都府京都文化博物館の「「白隠/禅と書画」展:白隠禅師生誕320年」

ほかに白隠禅画の研究で重要な事として書かれていたのは、
1964年 約500点の図版が収録された竹内尚次による『白隠』の刊行。
2009年 約1000点もの図版が収録された芳澤勝弘による『白隠禅画墨跡』の刊行。
2010年 日本美術史の権威である学術雑誌の『国華』にはじめて白隠の特集が組まれる。

また、今回の展覧会に繋がる直接のルーツになっているのが、2000年に開催されたギッターコレクションの「ZENGA展」。アメリカのコレクターが所蔵する白隠をはじめとする禅僧たちの絵を「ZENGA」の名のもと逆輸入的に紹介したという展覧会。日本各地をちょっとおもしろな禅画が巡回したという、この展覧会の監修を行ったのが今回の監修もされている山下裕二先生でした。

大量の書画を残し、見る人に強烈なインパクトを与える達磨の絵や、ユーモラスな戯画などが知られている白隠さん。

なぜ、これまで美術史の面からあまり語られてこなかったのか。
という理由の一つには、単純に「書かれている賛の解読が難しい」ことが挙げられるという。たしかに、あくまで禅画なので、表面的にいかにおもしろくても、添えられている言葉が分かっていなければ本当の意味で理解ができない。。

そんな中、今回のもう一人の監修者、芳澤勝弘先生の存在が。散在している白隠書画の徹底調査を行い2009年に刊行された研究書は、賛の書き起し、読み下し、解説が全ての作品に付けらたということで、白隠研究が新しい段階に進むことになったものすごい本みたいなのです。そんな研究成果の流れがあってこそ、ついに2012年、美術面からの評価と意味からの評価が融合することで、この大規模な白隠展が開かれるに至ったということでした。

展覧会の図録。すたすた坊主が表紙をすたすた。


白隠慧鶴 はくいん・えかく 享保2年(1686)~明和5年(1769)。
禅の世界では超メジャーな白隠禅師。今の日本の臨済禅の法系を辿ればすべてこの人物の下になるという、偉大なる人。その禅画を美術面からみたとき、絵は恐らく独学で、アカデミックな潮流からは程遠い作風。まだまだ安定していない評価。しかし何にもとらわれない独創的な表現は、後の「奇想」とかと呼ばれる画家たちの祖とも呼びえるのではないか、白隠はメインストリームで扱われるべき人物なのではないか、と今まさに美術史は塗り替えられようとしている最中。図録に寄せられた山下先生の文章のタイトルはまさに「白隠のいる美術史へ」でした。

ということで美術史上の意義がとっても大きい展覧会だったのだと思います。
集められた作品も、白隠画が最も独創的になりエネルギーが溢れるとされる最晩年の作品が多く。厳選された作品が一堂に見られ、また個人のコレクションも含まれていたので、見る側としても、二度とお目にはかかれないかもしれない一期一会の機会でもありました。

とはいえ、ただ個人的に「白隠」に向き合うなら、1点だけ見るのでも十分に思いました。
まだまだ仏の経験値みたいなものが少なかったり、精神がゆるーいわたしには、いろいろなことを本当に理解することもできないと思ったので、一点集中! と、定めたのは、分かりやすく伝わってくる文字、書となりました。

「親」 孝行するほど子孫も繁昌 おやは浮世の福田(ふくでん)じゃ
親に孝行するほど子孫は栄えていく だから親は幸福を生み出す宝物だ という意味だそう。

きっと見るタイミングによって全く変わってしまうと思う、見る側の精神度合いとかでもかなり左右される白隠画の観賞。見方感じ方は色々で、単に造形として感じたいときもあれば、やはり書かれたものを深く知ろうと思えば、同時に宗教的なことを理解しなければいけない。

膨大な数の著作を残し、各地に赴き講義を行い、大量に描いた墨蹟を通してひろく禅を伝えることに努めた白隠禅師。宗教改革者としてのそのすごさを読めば読むほど、白隠さんの絵のことを理解できるなんてまだまだだ、と思ってしまいます。


白隠さんの絵は、どこが、何が、すごいのか。
今回の作品解説も書かれていた矢島新さんの本には「「主観の表現」により日本独自の禅画のルーツを生み出した」、とありました。伝統的な宗教画というと、崇高さの表現を目指すもので、技術をもって完全な形態を作り出そうとするものであるが、それと比べると白隠画は先例に習うものでも、模写的なものでもなく、「内なる仏」を画面に映し出そうとしている、と。


『近世宗教美術の世界』 矢島新 2008

白隠の現存作品の総数は1万点を越えるともいわれ、80歳を越えても1日10点近くの制作していたというエピソードがありました。また同じ絵や同じ文字、同じ主題を何度も何度も書いていたと。“くりかえしくりかえし書く”という行為を想像してみると、それはその人物やその物事へ深く入り込み理解をしようとすることで、それ自体が修行そのもので、「内なる仏」を見出す行為なのだと思いました。
その境地としての精神世界が、線として一体化されている迫力。
そしてなにかの形式や、制約などにとらわれることなく生み出されている絵。
そういう表現主義的な部分こそが、禅という宗教的なものを越えても、今の時代にグイグイ伝わってくる格好良さなのかと思いました。


どんな感じで書いてたんだろうと「横向き半身達磨」を真似てみました。西日でいい感じ風を装いましたが、筆がむずかしすぎて「横向きバランスへんな達磨」になりました。


『白隠-禅画の世界』 芳澤勝弘 2005


芳澤さんの著書でも図録の中でも繰り返し言われていたこと。
白隠禅画は見るだけでなく、読まなくてはならない。白隠は芸術家ではない、宗教家である。美術として注目を集めているが、ただ美術的観点からだけでなく、宗教家として伝えようとしたメッセージの深意を掴まなければいけない。
と、とても研究的に白隠を考える時の視点が前面にありましたが、個人的に白隠に出会う場合は、禅からでも絵からでもどこから入っていっても、どう捉えようとも、最終的には宗教家とも芸術家とも分けることができない。そして言葉にできない「絵のかたちをした何か」に辿り着いてしまうことになるんだろうと思います。

白隠さんという人自体についての感想。
『徒然草』を嫌っていた白隠は、吉田兼好を猿に見立た「吉田猿猴」という絵を残していました。白隠さん的にはたぶん「つれづれなんかしてんじゃねーよ」という感じでしょうか。私としてはどちらかと言えば「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかい」たいほうなので、その点でも私にはまだまだ白隠さんの境地なんか理解できたもんじゃないと思ったのですが・・ この作品と背景を知ったとき、なぜか大島渚と野坂昭如の殴り合いシーンがよぎって消えていきました。言いたいこともズケズケいうけど、憎めない偉大なるオヤジ。なんとなく勝手に、そんなイメージの人物が出来上がりました。


数多くの作を残し、形式に捉われず、内から見出す仏の表現、そして正統な美術史からは外れた存在と見られてきたこと。。。それは次に訪れた「円空展」でもまったく同じものを感じたのでした。


2013年3月5日火曜日

那智瀧図


根津美術館の那智瀧図(なちのたきず)。

たぶんこの瀧が飛瀧(ひろう)神社のご神体として崇拝されている熊野の那智瀧である、ということを知らなくても、向かい合えばかならずそこに神性を認めさせる、その完璧な絵姿がとてもすきです。国宝なんだそうですが、歴史的にこのような絵が日本の宗教画としてあることはまさに国の宝もの。

はじめて実物を見ましたが、ふしぎなことに、たとえばプリントされたこのパンフレットでも十分というか。神々しいものを含めた那智瀧がそれくらい記号化されてこの絵の中に収まっているからこそなのか。

滝というのにはなんだか特別さを思わせるなにかがある。大きい滝、小さい滝でも山を切り分け上から下に音を響かせ流れるさまには、分かりやすく自然の力を感じさせるものがある。滝行とかあるくらいだし、滝と聞けばその美しさを越えて何か厳かなものがそこにあるというのが、感覚的に備わっています。

それにしてもこれまで滝をモチーフに描いている絵は数え切れないと思いますが、思いつくのといえば何だろう。

円山応挙 大瀑布図 1772

「保津川図」「波濤図」「龍門鯉魚図」。水を描いている印象も強い応挙。これは音が聞こえてきそうな勢い。










葛飾北斎 木曽路ノ奥阿弥陀ケ滝 1833頃

全国の有名な滝を描いた北斎の『諸国滝巡り』8枚のうちの1つ。かっこよすぎてびっくりする絵。










東山魁夷 夕静寂 1974

これは滝というより静けさのほうが主役。実際この場所に滝は無くあとから付け足したんだそう。音が静寂をつくるというふしぎ。
千住博 waterfall 2009

ほかの千住さんの作品を知らないのですが、滝といえばと思い出しました。




会田誠 滝の絵 2007-2010

先日行った会田誠展でも見られた滝の絵。たしか「奉納」と額に書かれていて、滝にあそぶ少女たちの姿は宗教画として妙に納得させられる作品。













那智瀧そのものもたくさん描かれてきたということですが、あまり知らず。

(左)鈴木芙蓉 那智瀑泉真景図 1793 (右)冨田溪仙 那智瀧 1935

瀧のことについて、またまた先日読んでいた白洲正子さんの本に「瀧に想う」という文章があり、短いながらも瀧にまつわる日本人の感覚がまとまっていて良いエッセイでした。


『縁あって』白洲正子 1999

そのなかにあった百人一首のひとつ。

瀧の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
藤原公任  

「瀧は枯れてしまってずいぶん経ってしまったが、その名声は流れ伝わって今もよく知られている」という内容の歌。それより詳しい歌の解釈はわからないですが、“もはや無いものをあるように聞く、あるように感じようとする”、という意味で「想像する」のはとてもアーティスティックな行為だと思いました。そのあと白洲さんは石と苔だけで瀧を表現する「枯山水」を例にひいていて、それは静寂の極みである反面「音の庭」だと書いていました。まさに観念の世界の最高域のものという感じです。

宗教画というのもそういう性質を持ち合わせていると思うのですが、那智瀧図も千手観音が姿を変えた神体・飛瀧権現という観念の世界をいかに凝縮させてあらわすかが突き詰められているようです。

那智滝図は、13〜14世紀の鎌倉時代に制作され、誰が描いたのか、何のために描かせたのかは研究者のあいだでも議論が続いているそうです。根津美術館の白原由起子さんの書いたものによれば、絵の下のほうに卒塔婆が描かれていて、これは亀山上皇が1281年に建てたという説があるので、この絵が書かれたのはその後なのではと想定されているんだそうです。とにかく描いた人がすごい。

那智瀧がモチーフになっているものとして最も好きなのは芹沢銈介展で見た「御滝図文のれん」(1962)。那智瀧図が完全に元になっていると思うのですが、細かいところが削ぎ落されているにも関わらず、おもわず祈りたくなるような神聖さを兼ね備えているのがすばらしい。ただちょっと簡単にはくぐりづらいと思われるのれんです。