2012年7月6日金曜日

「福田平八郎と日本画モダン」ギャラリーツアーいってきました


福田平八郎展 ひとまずその前に
「福田平八郎と日本画モダン」いってきました

を経て、今回は差し当たり締めくくりの最終章。
山種美術館でギャラリーツアーがありましたので、後期の展示を見がてら参加してみました。

美術ジャーナリストの鈴木芳雄さんと館長の山崎妙子さんを案内人に、「こんな日本画を知ってましたか?:福田平八郎の世界」という題目でのギャラリーツアーでした。



後期の目玉はこの「雨」。
雨の降り始めの跡が見える瓦という斬新な絵。いろんな事を言い表そうとしない平凡なタイトルも、平八郎の作品では印象的。「漣」についても、はじめは「涼風」とか「波光」とかを考えていたらしいですが、シンプルに「漣」。より本質的な感じを受けます。


全体の展示では他に作品の入れ替わりが多少ありつつでしたが、短期間でもう一度訪れて同じ作品を見るというのはあまり無いこと。本を2回読んだときみたいに、1回目とはまた違うところが気になったり発見があったり。そんな感じで、そこだけ時が止まったようにいつも同じモノが見られる、気軽に行ける場所がもっとあればいいなとか思います。


「筍」は、何度見ても飽きる事無く。




筍を引き立たせるために簡略化したという背景ですが、色の無い葉を重ねていった平八郎の心境の謎は私の中でまだ解けていません。ギャラリーツアーの中では、「色をすてる」と言い得て妙なフレーズを使われていました。

フレーズと言えば、この時代の日本画家、平八郎をはじめ速水御舟、上村松園らは筆が当たり前に使われていた最後の世代で、いわゆる「筆ネイティブ」だという話もありました。デジタルネイティブならぬ「筆ネイティブ」。カッコいい。どちらのフレーズも、山下裕二先生語録だそうです。

元ブルータス副編集長、鈴木さんのお話では、例えば突如ピート・モンドリアンが登場してきました。「日本美術」というジャンルはさっと飛び越えて、点と点を面白い視点で結びつけてしまうことのできる編集者な目線。はるか彼方の地で同時代を生きていたピート・モンドリアンですが、だんだんと抽象表現に移行していった彼の作品の話を交えながら、平八郎がもっと抽象に進めばあったかもしれない作品の可能性を想像させられるような話でした。


しかし、平八郎さん自身は、どこまで自分の作品のかっこよさを自覚していたんだろうかと思います。特に「筍」「漣」「雨」「雪」。
抽象的とかデザイン的といわれることのある平八郎の表現について、ギャラリーツアーのあいだ、もう一度考えてみました。

その斬新さが今から見てもかっこいいと思えるので、福田平八郎に惹かれていた部分がありますが、斬新な技法の部分に平八郎はあんまり執着してないように思えます。
見る側からの勝手な要望としては、鈴木さんの話にもあったように、要素をギリギリまでそぎ落とし、その表現を極めた先の、もっと抽象的なものを見てみたいという気持ちがあります。

が、たぶん平八郎にとっては、スタイルや理論ありきでモノを見ていたわけではなくて、きっと見えている自然/感じた自然をどう表すかという追求が大事。今はデザイン的な視点から平八郎作品を見てしまいますが、本人はそこは意識していなくて、色々そぎ落して本質を描き出そうとしたら、結果デザイン的なものになったというだけのような気がしました。


そこにある、感じられる自然。人間がそれを再構成して「絵」で表現するとき、本質を得ようとすればするほど、抽象的なものになっていく進み方はとってもおもしろいと思います。燃え上がる炎がだんだん「火」の文字になる過程みたいに。




でも「漣」から150年ほど前に、円山応挙は「氷図屛風」でこういうことをしているという日本美術のかっこよさ。

さてもうちょっとしたら、今度は根津美術館で応挙の藤花図と近世の屛風という展覧会がはじまりますので、またそそくさと行ってみようと思ってます。


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